明悼皇后毛氏

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明悼皇后 毛氏(めいとうこうごう もうし、? - 237年)は、中国三国時代の第2代皇帝である明帝皇后[1]。通称は毛皇后(もうこうごう)[1]。父は毛嘉[1]。弟は毛曾

生涯[編集]

司隷河内郡の出身[1]文帝の時代に東宮に入り、曹叡の寵愛を受けて輿車への同乗を許された[1]226年に曹叡が明帝として即位すると、貴嬪を経て皇后となる[1]。しかし明帝の愛情が次第に郭氏に移っていき、毛皇后は無視されるようになる[1]。ある時、明帝が才人以上の女官を集めて宴会を催したが、その宴会に毛皇后を招かず緘口令を布いた[1]。その翌日、毛皇后が明帝に昨日の宴会は楽しかったかと言ったので、緘口令を破ったとして明帝は側近を10名以上殺害し、毛皇后に対しても賜死を命じたという[1]

三国志演義』でもほぼ同じだが[1]、自殺の理由は郭氏への寵愛を嫉妬した末の賜死であり、後に明帝は毛皇后の亡霊に悩まされて命を落とす設定になっている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 小出『三国志武将事典』P410

参考文献[編集]