高堂隆
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高堂 隆(こう どうりゅう、? - 237年[1])は、後漢末期から三国時代にかけての魏の武将・政治家。字は升平(しょうへい)[1]。前漢の儒学者・高堂生の子孫[1]。
生涯[編集]
泰山郡平陽県の出身[1]。泰山郡太守の薛悌に仕えて督郵となるが、督軍と争って辞職する[1]。213年に曹操に召されて丞相軍謀掾に任命し、曹操没後の文帝の時代に当時は平原王であった文帝の長男・曹叡の守役となる[1]。文帝崩御後に曹叡が明帝として即位すると陳留郡の太守に任命され、後に中央に召還されて散騎常侍となり、さらに天文に詳しいことから暦の研究を命じられる[1]。最終的に光禄勲にまで昇進したが、明帝は宮殿の造営を続けて国力を浪費したため、その度に上奏して厳しく諌めている[1]。237年に死去。
『三国志演義』には登場しない。