以心崇伝
以心崇伝(いしん すうでん、永禄12年(1569年)- 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧侶・政治家。字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。
概要[編集]
本光国師の称は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。
徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる。その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った。起草した武家諸法度は老中以下諸大名の前で崇伝により布告された。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられた。
生涯[編集]
父は室町幕府の第13代征夷大将軍・足利義輝に仕えた幕臣の一色秀勝で次男。
伝承などでは早くから徳川家康に仕え、元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いで徳川軍の陣中にあって書状作成などを担当し、自ら刀を振るって首級を3つ挙げて家康から賞されて、以後黒星三を金地院の紋としたというものがあるが、このときの崇伝はわずか4歳であり、恐らく後代に作り上げた架空の話と考えられる。
天正元年(1573年)に南禅寺に入る。慶長10年(1605年)に鎌倉の建長寺・京都の南禅寺の住職に就任した。
慶長13年(1608年)に江戸幕府の大御所・徳川家康から招聘されて登用されると、外交文書の判読や作成、公家や武家、宗教に関する法令の起草に関与して中心的な役割を果たすようになる。家康の信任は厚く、『武家諸法度』・『禁中並公家諸法度』・『五山十刹諸山法度』・『伴天連追放令』などの法令作成に全て崇伝は関与している。さらに慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の原因となる方広寺鐘銘問題で、崇伝は林羅山や天海と共に「国家安康」の文字を家康の諱を割って呪詛するものと言いがかりを豊臣秀頼につけて批判したりしている。
元和2年(1616年)に家康が重病に倒れると、本多正純と共に枕元に呼ばれて家康の遺言を受けている。以後、徳川秀忠・徳川家光に重用されて、「黒衣の宰相」と呼ばれるほどの絶大な権勢を振るった。
寛永10年(1633年)1月20日に65歳で死去。