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日本国有鉄道

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
国鉄から転送)
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社章。Japanese National Railwaysの略である「JNR」の文字がデザインしてある。
シンボルマーク(Iマーク)

日本国有鉄道(にほんこくゆうてつどう、にっぽんこくゆうてつどう)とは、日本国有鉄道法に基づき独立採算で経営していた公共企業体である。いわゆる三公社五現業の一つである。通称は国鉄(こくてつ)。1987年分割民営化され、事業は旅客鉄道会社、貨物鉄道会社、その他の関連会社に引き継がれて、国鉄時代の債権債務は国鉄清算事業団に引き継がれた。

概要[編集]

1949年(昭和24年)6月1日に当時の運輸省の外郭団体で、三公社の一つ、すなわち、独立採算制の公共事業として鉄道、自動車事業を承継する国の事業体(公共事業体)として発足。

公共事業体という特殊法人形態で民業圧迫を避けるため、副業を直接行うことが制限され、関連会社による百貨店はあったものの、ホテル業、プレイガイドや不動産業などを手掛けられず、ほぼ鉄道事業のみの収益でやり繰りしなければいけなかったため、私鉄沿線と比べて豊かさに乏しいイメージが強かった[注 1]

新路線の建設は、国営時代同様、政治家の政争の道具となり、収益の見込みのないにも関わらず、無秩序に建設が行われ、日本鉄道建設公団発足後に建設技術の進歩があっても、石勝線や予讃新線以外は、後年のほくほく線智頭線のように有効活用されずにいた。
このため赤字路線が数多く存在し、さらに、戦前に陸上交通を独占していた時代の低規格さゆえに運行の目的を終えた路線の廃止もできず、後年の赤字額増大の一因となった。

歴史[編集]

1872年(明治5年)の鉄道開業以来、東海道線奥羽線などを建設しつつ、日露戦争後の1906年(明治39年)の鉄道国有法制定後に、それまで日本鉄道関西鉄道など各地の民営鉄道が経営した幹線を国有化して規模を拡大して、鉄道省などの政府官庁によって、国営で鉄道、自動車事業を運営しつつ、横浜鉄道相模鉄道相模線など産業・軍需に貢献する私鉄路線を買収してさらに規模を拡大後、公共事業体転換を迎えた。

十河信二東海道新幹線建設の道筋をつけた後、財界出身の石田禮助1963年(昭和38年)に総裁となった。民営の感覚で公共企業体としての体裁を保とうとして、国鉄スワローズの身売りも断行したが、在任中の1964年(昭和39年)から赤字に転落し、競合する自動車、一般路線バスにシェアを奪われるようになる。

1969年(昭和44年)に総裁に就任した磯崎叡は赤字が増大する中で、マル生運動と呼ばれた生産性効率向上運動を実施したが、労組から不当労働行為と名指しされ、頓挫した。

磯崎の後を継いだ藤井松太郎総裁時代、スト権ストが生じた。貨物輸送の荷主離れを引き起こしたばかりか、労使双方とも地方を中心としたマイカーやトラック輸送のシェア拡大を思い知らされ、喧嘩両成敗的な結末となった。労組側は目標とした争議権獲得がままならずこの点では敗北したものの、新車投入などの労使交渉の主導権は相変わらず保持した。

1976年(昭和51年)高木文雄が総裁に就任した頃の国鉄は、本数が多く乗客本位の姿勢の職員が多かった大手私鉄に比べてサービスが悪いというイメージが定着していた。「ダイヤが不便」で、「車両が古い・駅が古い・照明が薄暗い」など旧守的なサービス環境が当たり前になっており、特に、接客態度が「上から目線」であることが客の間で不満となった。

1976年の50%値上げをはじめとした、70年代中期頃の運賃値上げラッシュや一部区間の投資停滞により、客離れが進んで飛行機にシェアを食われるようになり、中国ハイウェイバスのように高速自動車線への転移が進んだ区間や岩手県の106急行バスと競合した山田線、広島都市圏の可部線芸備線や福岡都市圏の勝田線のように、移動需要があるのに路線バスのシェア増大に打ち勝てない区間も出てきた。また、同じ1976年にヤマト運輸が「宅急便」を開始、郵便小包と共に国内の小荷物輸送を寡占していた鉄道小荷物輸送もシェアを食われるようになった。

そうした中で、1983年(昭和58年)に総裁に就任した仁杉巌が「全国一社、子会社併用民営化」案を出したが政権中枢から「労組寄り」として支持されず、1985年(昭和60年)6月に総裁が元運輸事務次官の杉浦喬也[注 2]に交代。加えて、同年11月に民営化反対の労組[注 3]を支援した過激派が起こした国電ゲリラ事件の影響により、世間はストライキばかりしている国鉄は分割民営化した方が良いという意識を持ち始める。
翌年の1986年の国政選挙では自民党が圧勝し、分割民営化関連法案が可決された。1987年時点で37兆円の債務超過を抱えることになった。

1987年4月1日国鉄再建法により分割民営化され、115年に亘る国営・国有鉄道は幕を閉じ、国有化された私鉄買収路線は再び民営路線となった。

民営化後[編集]

国鉄分割民営化#影響」も参照

民営化されると初期頃は借金を抱えながらもJR東日本JR西日本はサービスが大幅に改善され、さらに主なターミナル駅を中心に「ルミネ」など百貨店やショッピングセンターを運営するようになった。
また、札幌、名古屋、大阪、岡山、広島、高松、福岡の近郊は国鉄時代より増発されたケースが多い一方、県境や経済圏を越えるローカル線で大幅減便となった所も多い。
さらに、京浜間や阪神間などで私鉄と対等の所要時間になり車両も私鉄より設備が良くなったが、名岐間でJR東海の一方的な優勢状態となり、国鉄分民化前より車両レベルが落ちた名鉄富山地方鉄道福井鉄道といったJR並行民鉄の一部で負の面が現れた。
バブル崩壊後にJR東日本でのセミクロスシートの減少、JR西日本での一部地方路線の切り捨て、東日本大震災後に一部被災路線のBRT路線化といった一部鉄道ファンに低評価な施策が行われている。

発足以前の鉄道事業官庁[編集]

  • 工部省鉄道寮
  • 内閣鉄道局
  • 内務省鉄道庁
  • 逓信省鉄道局
  • 帝国鉄道庁
  • 内閣鉄道院
  • 大日本帝国鉄道省 (1920年 - 1943年)
  • 運輸通信省 (1943年 - 1945年)
  • 運輸省 (1945年 - 1949年)

開発車両[編集]

詳細は「日本国有鉄道の車両」を参照

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 同時期の営団地下鉄も特殊法人のため副業や広告収入などは規制されていたが、ドル箱路線を抱えていたため、それほど問題にはならなかった。
  2. 最後の国鉄総裁。
  3. 当時の中曽根首相の国会答弁から動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合)とされたが、当時、「動労千葉」の呼称だった動労の千葉支部は舌禍扱いした。
出典