予定説

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予定説(よていせつ)は、キリスト教の神学上の説の一つ。ここでは予定説の表面的な部分ではなく根幹的な部分を説明する。

「救済予定説」「二重予定説」という呼び方もある。

概要[編集]

予定説は、誰が救われ、誰が救われないということが、あらかじめ決まっている(神によって決められている)とする説であるが、それは予定説の表面的な部分に過ぎない。

しかも、表面的な部分だけが過度に強調される傾向があり、反発が生じたり肝心な部分が無視されたりしているのである。

プロテスタントの一部の教派または個人だけが予定説を支持している。予定説を支持する教派に属していても、そこまで考えていない信徒の方が多いというのが実情であろう。また、予定説に否定的な教派に属しつつ、予定説を支持する者もいるはずである。

予定説なしには説明の付かない事柄[編集]

予備知識[編集]

旧約時代、ユダヤ教では家畜をいけにえにしていた。罪を犯した自分の代わりに家畜を殺し、いけにえにすることで神の怒りを静めるためである。

キリスト教では、イエス・キリストを信じた者は、その者の罪のために神の子が殺されたと見なされ、神の怒りは静まり救われる(死ねば天国に行ける)とする。

これらを「あがない」と称する。

キリスト教の救いは環境によって左右される不公正なものなのか?[編集]

ユダヤ教では、ユダヤ人以外は(極一部の改宗者を除き)救われないことになる。

キリスト教では、イエスを信じない者は救われない。イエスを信じることを死ぬまで拒み続けた者が救われないのは当然である。しかし、死ぬまでキリスト教に接する機会がなかったためにイエスを信じることができなかった者も救われないことになる。生まれた国にキリスト教が伝わる前に死ぬ者や、生まれてすぐに死ぬ者、無神論の国やイスラム圏で一生を過ごした者も(ほぼ)絶対に救われないことになる。

親がクリスチャンであるか否かで、人が救われる確率は大きく違ってくる。

どれほど善良な者であっても、生まれ育った環境次第では救われない(あるいは救われることが極めて困難)ということになる。どれほどの悪人であっても、キリスト教が定着している国ならばイエスを信じ救われることが可能である。

神は不公正なのか?[編集]

イエスを信じ救われるか否か、あるいは罪を犯すか否かということが、生まれた環境によって大きく左右されるというのは紛れも無い事実である。

しかも、それらは、自分の善良さや努力ではどうすることもできない場合もある。

これらだけを見ると神は不公正ということになってしまい、神が不公正でないということに説明を付ける必要が生じる。

上記の問題への説明[編集]

神には人を試す必要があるのか?[編集]

神は全知全能である。従って、いつ何処で誰がイエスを信じ救われるか知っていることになる。同様に、いつ何処で誰が、どんな罪を犯すかということも知っていることになる。全知全能である故に、神には人を試す必要などないのである。

試す者と試される者[編集]

神が人を試すのでなければ、誰が誰を試すのか?という疑問が生じる。「神」と「人間」との関係において、試す者と試される者の組み合わせは他にもあるだろうか?人が神を試すなどは冒涜である。残る組み合わせは、人が自分自身を試すというものである。

ここまでの結論[編集]

人は、罪を犯すことによって自分自身の愚かさを知るために、神によって生かされているのである。

予定説の救済観[編集]

一人一人、程度に差はあるが、人間は愚かさを有している。人間の愚かさは罪を犯すことによってのみ明らかになる。罪とは神にそむく行為のことである。

神は人を、罪を犯すことが可能な環境に置く。更に、悪霊たちを、人が罪を犯すように唆すことが可能な状態にしておく。すると人は悪霊に唆されて(場合によっては悪霊の唆しとは無関係に)罪を犯すことになる。罪を犯すことによって人は自分自身の愚かさを知ることになる。

罪とは、人に、その人自身の愚かさを知らしめる唯一のものである。しかし、罪が神にそむく行為であることには違いがない。人が罪を犯せば神には怒りが生じ、神に怒りが生じれば、それを静めるためにあがないが必要になるのである。

予定説に基づいて考えると、キリスト教に接する機会が無かったためにイエスを信じることができなかった者は救われない。しかし、キリスト教に接する機会が無い人生であっても、犯した罪によって自身の愚かさを知ることだけはできるのである。

神が「救う」と定めた者以外が、キリスト教に接することが殆ど不可能な環境に生まれてきて、結果において救われないことは、人の目には「環境が悪いから救われなかった」と見えるが、神から見たら、環境は救いを全く左右していないのである。

余談:悪霊には、人が罪を犯すように唆すことや、人に直接少々の危害を加えることは許されているが、その行動には制限が掛けられてもいる。それに対して、悪霊に唆された人が犯す罪には(悪霊の場合と同じような)制限が掛けられているわけではない。

まだ生じ得る疑問点[編集]

生まれてすぐに死に、罪を犯さなかった者は?[編集]

生まれてすぐに死んだ者の場合は、その程度の人生であっても自身の愚かさを知る(或いは、神の前で自分が愚か者であることを認める)には十分なのであろう。共産圏やイスラム圏で一生を過ごした者も同様である。

なぜ神は、全ての愚か者の中から一部の愚か者だけを選んで救うのか?[編集]

教会時代が終わり、患難時代が七年間続いた後、イエスは再臨し千年の間、王となる。

携挙に取り残されてからイエスを信じ、尚且つ患難時代を最後まで生き延びた聖徒たちは普通の体なので子を生み、どんどん増えることになる。それまでに死んで復活した聖徒たちや、携挙された聖徒たちは栄光の体を与えられるので、結婚したり子孫を残すことはない。

携挙前に死んで携挙のときに復活した聖徒たちと、携挙の日まで生きていて携挙された聖徒たち、患難時代に死んで再臨のときに復活した聖徒たちは栄光の体を与えられる。栄光の体を与えられた聖徒たちは、再臨後の地上で千年間、わけもなく過ごすわけではなく役割も与えられるはずである。神の国で役割を与えて用いるために、神は、全ての罪人の中から一部の罪人だけを厳正に選び、あがなっておられるのであろう。どのような役割が与えられるかは、第一コリント6章の始めの方と出エジプト記18章の後半に書かれている。

予定説は原罪を否定するか?[編集]

予定説では、罪を犯すことによって自分の愚かさを知ることになるとする。原罪は自分の意思で犯す罪ではない。だからと言って、原罪を否定するわけではない。ただし、「原罪」という聖書中にない造語は「原愚」と呼ぶ方が適切であろう。

予定説では伝道や善行は無意味なことなのか?[編集]

表面的に予定説を学んだ者の中には「誰が救われるのか神によってあらかじめ決められているのであれば伝道は無意味だ」と考える者もいると思われる。しかし、伝道や、その他の良い行いを多くした者ほど、神の国では重要な役割が与えられるはずである。

信仰義認も良い行いをする意欲を失わせるものである。良い行いには伝道も含まれている。実際、大航海時代に木造の帆船で南米や極東にまで伝道したのは、信仰義認を発見したプロテスタントではなく、行為義認的な立場のグループであった。予定説に反対するならば信仰義認にも反対しなければなるまい。

「予定説は伝道する意欲を失わせる。だから予定説は間違いだと信じたい」というのは感情論に過ぎない。伝道への意欲を失わせるかどうかは、必ずしも、それが正しいか正しくないかの判断規準になるわけではないのである。

予定説が伝道への意欲を失わせ得るものであるのは確かである。だからと言って予定説は間違いだということにはならないのである。

「伝道する意欲を失わせるから予定説は間違いだ」と言う牧師たちは、本当に自分の考えでそんなことを言っているのだろうか?神学校の講師から聞かされた感情論の受け売りの可能性もある。また、予定説に否定的な講師は最初から予定説を真面目に教える気など毛頭なく、代わりに予定説を否定する感情論を教えているのであろう。

伝道への意欲を失わせるものは予定説だけではない。山脈が存在していることも、大海原が存在していることも伝道への意欲を失わせる。共産圏も、離島も大河も、難解な外国語も伝道への意欲を失わせる。カラシニコフ突撃銃で武装したイスラム教徒たちは伝道への意欲を一瞬で消し去ってしまう。しかし、それらが存在していることは事実であり否定のしようがないのである。

予定説によって伝道への意欲が低下することよりも、予定説を知らない者が「神は公正ではない」と思って、神に反感を持ってしまうことの方が遥かに大きな問題である。

神に反感を持った者は教会でモラルハラスメントを繰り返すようになる可能性が高いし、極論すれば神への反感から悪魔崇拝に走ってしまい兼ねないのである。

予定説によって神への反感は払拭される。伝道する意欲を失わないように神への反感を持ち続けた方が良いのだろうか?神への反感を伝道の原動力にするのは賢明なことだろうか?

予定説ではセカンドチャンスを否定するか?[編集]

否定する。セカンドチャンスと予定説は真逆である。セカンドチャンスを主張する者たちが指摘する(セカンドチャンスがない場合の)問題は、予定説によって説明が付くのである。予定説の研究を怠った者がセカンドチャンスに走っているのである。

セカンドチャンスは異端とされる説である。予定説に異端的な要素はない。

予定説で説明が付くその他の謎[編集]

善悪の知識の木[編集]

創世記2章から3章に登場する善悪の知識の木が無ければアダムとエバは罪を犯さずに済んだはずである。神は何故、態々、善悪の知識の木をエデンの園の中の手の届く場所に生えさせたのか?

アダムとエバの愚かさを明らかにするためには、アダムとエバが罪を犯すことが必要である。アダムとエバが罪を犯すには、彼らが罪を犯すことが可能な環境が必要である。故に、食べてはならない実がなる善悪の知識の木を、神はエデンの園に生えさせたのである。

それから神は、善悪の知識の木の実を食べるように人を唆すことを何者かに許したのである。蛇に誘惑されたエバには社会経験など一切ない。騙されない方が不思議である。エバは善悪の知識の木の実を食べ、アダムにも食べさせた。

神は、罪を犯すことが可能な環境にアダムとエバを置き、彼らが犯す罪によって彼らの愚かさを明らかにしたのである。

その他[編集]

神はその他の聖書の登場人物にも罪を犯す機会を与え、犯した罪によって、その愚かさを知らしめている。ダビデが特に典型である。

千年期[編集]

黙示録20章ではイエスの再臨のときに縛られたサタンが千年期の終りに解放されると書かれている。どうして態々サタンを解放する必要があるのか?

千年期の初期や中期にはサタンが縛られているため、千年期に生まれた者たちは、その間サタンの誘惑を受けない。少々の罪を犯すことや多少の争いが起こることはあるだろうが、あまり罪を犯すことはないと思われる。彼らが罪を犯さないのは善良だからではない。サタンの誘惑がないために罪を犯さずにいるに過ぎないのである。千年期に生まれる者たちも、教会時代に生まれた者たちも、愚かさの程度に大差はないのである。

サタンが縛られている千年期に生まれた者たちが、あまり罪を犯さなければ、彼らの愚かさは明らかにならない。神は、最後の審判の直前である千年期の末期にサタンを解放することで、千年期に生まれて、あまり罪を犯したことのない者たちに罪を犯す機会を与え、彼らが犯す罪によって彼らが内に秘めた愚かさを明らかにするのである。

どうして神の国は千年で終わるのか?[編集]

患難時代に人口は激減するはずである。その後、キリストが再臨し、王となって世界を治め、病気も戦争も天災もない時代が千年間続くのである。そのときには人口は増える一方である。そんな時代が千年以上も続いたら地球は全人口を収容できなくなってしまうからであろう。

重要事項[編集]

人が救われることが殆ど不可能な環境が存在し、そこに生まれてくる人がいる。その事実に気付いた者が正常な神経の持ち主であれば、神に強い反感を持ってしまい兼ねない。

人が救われるか否かが、生まれ育った環境次第で、ある程度決まってしまうというのは紛れもない事実である。それでも神は不公正ではないということに説明を付けようと知恵の限りを尽くして答を模索していた者が主の恵みにより答に到達した際に、人の救いが予定されていることが判明しただけなのである。

予定説は、悪意のある者がキリスト教界を混乱させる目的で言い出した突飛なことなどではないのである。

関連項目[編集]