足利茶々丸
足利 茶々丸(あしかが ちゃちゃまる、? ‐ 明応7年(1498年)8月)は、室町時代後期の武将。第2代にして最後の堀越公方である(在任:延徳3年(1491年)‐ 明応7年(1498年))。室町幕府の第11代征夷大将軍・足利義澄の異母兄にあたる。
略歴[編集]
父は初代堀越公方の足利政知。母は不詳。政知の嫡子だったが素行不良のために廃嫡となり、さらに軟禁状態に置かれたという。これについては茶々丸の継母で義澄や足利潤童子らの生母である円満院が讒言したため、とする説があるが、これらを証明する一次史料は現在のところ発見されておらず、実際のところは不明である。
延徳3年(1491年)4月に父が死去すると、次の堀越公方には異母弟の潤童子が就任するようになっていたとされるが、軟禁されていた茶々丸はそこから脱獄すると、7月に潤童子とその母の円満院、さらに堀越公方家にとっては重臣である外山豊前守、秋山新蔵人らを悉く殺害した上で、自ら堀越公方に就任した。この一連の惨殺劇には多くの家臣が反発し、茶々丸は孤立した状態に置かれた。また足利政綱と名乗ったとされるが、一次資料などからは確認できない。
明応2年(1493年)4月22日、伊豆国の堀越御所を当時は今川氏親の重臣であった北条早雲に攻められて敗れた。この際、以前は早雲に追い詰められて自殺したとされていたが、現在ではその後も茶々丸が存命して抵抗運動を続けていたことが確認されている。なお、奇しくも茶々丸が堀越を追われた同日に京都でも明応の政変が起きていることから、この一連の政変劇は東西で連動していた可能性が高い。生母と同母弟を殺された足利義澄や政知と深い繋がりがあった細川政元らが早雲に命令して、茶々丸を攻撃させた可能性が非常に高いものと思われる。
堀越を追われた茶々丸は伊豆国守護を務める上杉顕定を頼って伊豆七島に退避し、その後は堀越奪回を目指して早雲に抵抗運動を続けた。武田信縄らの援助を受けていたとされ、明応5年(1496年)には富士山に自ら登って戦勝祈願を行なっている。しかし明応7年(1498年)8月、早雲に敗れて捕縛され、自害することを余儀なくされた。