小山田茂誠

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小山田 茂誠(おやまだ しげまさ、? - 寛永14年8月3日[1]1637年9月21日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将小山田氏の一族で同家の宗家に仕え、その後に後北条氏真田氏家臣となる。父は小山田有誠[1]正室真田昌幸の長女・村松殿[1]。子に之知、娘は市橋長政室と禰津信秀[1]の2人。通称は平三[1]。受領名は壱岐[1]

生涯[編集]

小山田・後北条家の時代[編集]

茂誠の生年については永禄4年(1561年)と永禄5年(1562年)の2説がある[1]。父親に関しては一般的に小山田昌成とされるものもあるが、史料上の混乱と小山田信茂による武田勝頼への裏切り行為に対する悪評を避けるために系譜操作したのではないかと見られ[1]、近年では父親は小山田有誠とされている説が根強い。天正3年(1575年11月、小山田信茂から「茂」の諱を与えられて元服し、小山田平三茂誠と称した[1]。天正10年(1582年3月織田信長による武田征伐武田氏が滅亡し、小山田氏も同時に滅亡すると父親とされる有誠と共に北条氏直を頼って仕えている[1]

有誠の動静は後北条氏に仕えて以降は不明であるが、茂誠は天正18年(1590年)に後北条家が豊臣秀吉小田原征伐で滅亡すると真田昌幸に仕えている[1]

真田家の時代[編集]

天正18年(1590年)12月1日に昌幸から村松郷において蔵納300文を与えられた[1]。また昌幸の長女・村松殿(信之、信繁兄弟の姉)と時期不明であるが結婚している[1]。昌幸からは娘婿として事実上の真田一門として厚遇され、慶長3年(1598年3月には壱岐守の受領名を与えられ、さらに真田姓を称する事も許されている[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは昌幸に従って信濃上田城に籠城し、徳川秀忠の軍勢と戦っている[1]。昌幸が紀伊九度山に流罪となると真田家の家督を新たに継いだ真田信之に仕えて本領地323貫400文を安堵された[1]。慶長20年(1615年)、前年の大坂冬の陣後の徳川氏豊臣氏の和睦期間の最中に義弟で豊臣方の武将であった真田信繁と親しい音信を交わしている[1]。なおこの際、信繁の娘を自分の養女として匿い、後に伊達政宗の家臣・片倉重長片倉景綱の嫡男)に嫁がせるのに一役買っている[1]

元和8年(1622年)に義弟で主君の信之が信濃松代へ移封されたのに従って松代に移るが、この時は既に茂誠は隠居の身であったという[1]。寛永14年(1637年)8月3日に死去[2]。享年76か77[2]。法名は霊雲院殿龍山恕白居士[2]。墓所は長国寺[2]

嫡子の之知は真田姓を主家に返上して小野姓を称した[2]。これは小山田姓を憚ったためとされるが、孫の代に小山田姓に復した[2]。茂誠の子孫は松代藩の次席家老の家柄として続いた[2]

2016年のNHK大河ドラマである真田丸では人気声優として有名な高木渉が茂誠を務めており、非常に人気が高い[3]

小山田茂誠が登場する作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。P221
  2. a b c d e f g 『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。P222
  3. NHK大河「真田丸」で”小山田茂誠”役の『高木歩』に注目が集まっていた!」

参考文献[編集]