市橋長政
市橋 長政(いちはし ながまさ、天正3年(1575年) - 正保5年2月11日(1648年4月3日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。越後三条藩の第2代藩主、後に近江仁正寺藩の初代藩主[1]。
生涯[編集]
父は林右衛門左衛門で3男。母は市橋長利の娘。養父は市橋長勝。通称は左京。正室は小山田茂誠の娘。子に政信(長男)、政直(次男)、娘(市橋長吉室)、娘(立花種長正室)。官位は従五位下・下総守。伊豆守[1]。
美濃の出身。慶長9年(1604年)に江戸に出て江戸幕府の第2代将軍・徳川秀忠に仕える。慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂の役には徳川方として参加し、敵の首級を一つ挙げた。そのため、下総香取郡・海上郡において1000石を与えられる。元和2年(1616年)に叔父の長勝が越後三条藩主に封じられたため、長政は養父と別に3000石を与えられた。しかしその後、所領を没収された[1]。
元和6年(1620年)に家督を継承し、近江野洲郡と河内交野郡に2万石を与えられた。この際、近江が肥沃な土地のことから蒲生郡仁正寺に住んだ。元和8年(1622年)1月2日に市橋三四郎に自分の所領から2000石を分与した。寛永3年(1626年)に第3代将軍・徳川家光が上洛して参内した際、長政が家光に従ったという。寛永5年(1628年)に摂津大坂城の石垣普請を行なった際、長政もその任務を任された。石垣が完成すると白銀30枚、時服5領を与えられた。寛永10年(1633年)には他の17名と共に海内諸道の巡検を行なう。寛永11年(1634年)に家光が病気に倒れた際、春日局が近江の多賀神社に代参して祈願しその後、家光が回復すると多賀神社の社殿造営が行なわれ、長政はその奉行に任命された[1]。
寛永12年(1635年)11月27日に上方御料所の郡奉行に任命され、寛永16年(1639年)までその職を務めた。正保5年(1648年)2月11日に死去[1]。享年74[1]。跡を長男の政信が継いだ。
法号は凌霄院殿桂林玄春大居士。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『三百藩藩主人名事典3』藩主人名事典編纂委員会 編、1987年。新人物往来社