毛利秀元処遇問題

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毛利秀元処遇問題(もうりひでもとしょぐうもんだい)とは、豊臣政権下における政治問題の1つであり、関ヶ原の戦いに繋がる原因の1つになった問題でもある。

概要[編集]

通説からの説明と誤解[編集]

まず、豊臣秀吉の死後から関ヶ原の戦いにかけては、よく五大老筆頭で最大の実力者である徳川家康が好き放題し、秀吉の遺命を次々と破って専横を極め、それを止めようとした石田三成毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝らと共謀して挙兵した、というのが一般的な見解である。しかし、一次史料からうかがうと、むしろ秀吉の遺命を先に破っているのは他ならない石田や毛利としか思えないのである。この記事では、江戸時代に成立した二次史料ではなく、当時の一次史料あるいはそれに近い史料を用いて説明してゆく。

処遇問題の発生[編集]

毛利輝元は文禄4年(1595年)、43歳になるまで嫡子に恵まれなかった。そのため、毛利氏では輝元の後継者問題が発生しており、秀吉は自分の甥である羽柴秀俊を輝元の養子に送り込もうとした。毛利家の血統を守ろうとした輝元の叔父で補佐役の小早川隆景はこれを拒否し、秀俊は同じく子の無い自分の養子としてもらい受け、輝元には隆景のすぐ下の異母弟・穂井田元清の子・秀元を養子に迎えさせた。この過程で隆景はそれまで養嗣子にしていた異母弟の秀包には分家させて養子としての地位を剝奪した。

この養子問題に対して、天正20年(1592年)に朝鮮出兵のため、肥前国に向かう途上に広島を訪れた秀吉は、以下のような書状を出している。

輝元若く候間、実子出来るべく候。その時は実子をたて、大夫(秀元)事、似合の扶持を遣わすべく候

つまり、輝元はまだ40歳になったばかりだから実子の誕生もありえる、だから実子が生まれたら、その実子を後継者にしてもいいが、その際に秀元にはそれなりの代償を支払え、と命じているのである。

そして輝元43歳の時、待望の実子である秀就が生まれた。これにより秀元の毛利宗家の相続権は消滅し、輝元はそれなりの代償、つまり所領を秀元に支払う必要に迫られた。そんな中で、慶長2年(1597年)には隆景、さらに元清までが病死してしまい、毛利家は輝元を補佐できる人材を一気に失ってしまった。さらに、隆景の遺領問題までが発生してしまう。隆景は家督と九州の所領は秀秋(羽柴秀俊から改名)に譲ったが、備後三原など中国地方における小早川領はそのまま自分のものとして所有しており、また秀秋に従わず隆景にそのまま従っていた家臣も少なからず存在したため、これらをどうするのかで処遇問題と重ねて問題が膨れ上がることになってしまった。

輝元は所領問題の解決のため、慶長2年末から兼重蔵田検地と称される検地を行なっている。また、秀元の正室豊臣秀長の娘(すなわち秀吉の姪)・大善院であることや、秀吉の甥で一時期は養子でもあった小早川秀秋の養父・隆景の問題も重なっており、とても輝元単独で処理できることではなく、秀吉と調整してうまく処理する必要に迫られていた。

秀吉遺命と秀吉の死[編集]

慶長3年(1598年)8月1日、秀吉はこの問題に対する命令を輝元に下した。

  • 秀元の所領は出雲石見とすること(石見銀山は除外)。
  • 隆景についていた家臣、出雲・石見両国にいる国衆は秀元の家臣になること。
  • それまで出雲を領していた吉川広家は三原に移封すること。

これはとても輝元に受け入れられる命令では無かった。秀元に与える所領は毛利家全体のおよそ3割近くに及んでおり、しかも広家を三原に移すのだから、事実上輝元の所領は減らされたのも同じである。秀吉は、姪婿である秀元をよほど可愛がっていたのか、秀元に対する厚遇がうかがえる[1]遺命といえる。輝元はこの裁定がかなり不服だったらしく、叔父の毛利元康に対して以下のような書状を出している。

私は成り下がってしまった。言うべき言葉もない。秀元は同意しているので、所領を分配すれば自分は身軽になりよいだけれど、下々の者は何事かということだろう

8月13日、広家は長門に加えて、隆景の旧領のうち、1万石を広島堪忍領、あるいは上京用とし、残った旧領は輝元近臣に与えるようにという提案を輝元にしている。つまり、毛利家中では秀吉の遺命に大いに不服で、早くも何とかしようという工作が行われていたのである。

そして8月18日、秀吉が伏見城にて死去した。これにより、ひとまず秀吉の遺命の実行が先延ばしされる形になった。

輝元と奉行衆の策動[編集]

秀吉の死で、ひとまず遺命の実行は先延ばしになった。そして8月28日、輝元は五奉行増田長盛、石田三成、長束正家前田玄以らと起請文を交わしている。よくこれは通説において「秀吉の死後、専横の色を見せ始めた家康を抑えるために輝元や三成が交わした起請文」と言われるが、内容を見るとむしろとんでもないと言える。

  • 「秀頼様の取り立てられた衆と心を合わせ、表裏なく秀頼様にご奉公いたします。太閤様のご遺言もこれ以後忘れることはありません」①
  • 「もし今度定められた5人の奉行のうち、秀頼様への謀反ではなくても、増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家の意見に同意しない者があれば、私(輝元)はこの4者に同意して、秀頼様へ奉公する」②

なぜ、2つもあるのかというと、最初に交わされた起請文が①だったのだ。ところが、三成がこの①の起請文に不服を唱え、加筆訂正して②になったのだという。①なら大して問題にならないが、②なら一大事といえる。つまり、輝元以外の大老あるいは何者かが4奉行に同意しないなら、輝元は秀頼の名の下に4奉行と運命を共にする、というのである。これは、秀吉の遺言であった私党形成に明らかに背いていると言わざるを得ない。しかも、ここで気になるのが浅野長政を仲間に入れてない点である。長政は家康と懇意であり、その点から故意に外した可能性がある。つまり、秀吉遺言の決まりを先に破っているのは、他ならない毛利、石田たちなのである。

そして、9月2日に毛利輝元の家臣・内藤隆春(周竹)が次のような書状を出している。

「五人の奉行と家康半不和」(5奉行と家康が半ば不仲になった)

そして、輝元と三成らは家康に対して攻勢に出た。自分たちの私党結成を棚に上げて「家康が太閤没後から私党を結成している」として糾弾したのである。勿論、家康には覚えがないし、そもそも秀吉の遺言で政務を委託されていたのは家康だから、諸大名と話したり顔を合わせたりするのは当たり前なのだ。ところが、輝元はこの時は用意周到だった。前述の内藤隆春書状には以下のようにある。

「当家御人数二万余召し置かれ候、鉄砲七百丁、そのほか御家中相加え候わば、五千丁もこれあるべき由候」(毛利軍の兵力2万余、鉄砲700丁、さらに毛利家の家臣の分を合わせれば5000丁にはなるでしょう)

つまり、輝元は家康と軍事衝突も辞さずのつもりで糾弾したのである。これに対して家康側の史料が無いので何とも言えないが、2万人も徳川方が用意していたのかは非常に疑問である。もし、用意していたなら何らかの史料に残っているはずだが、そのようなものはない。何より秀吉から政務を委託された家康が、現時点で戦闘を引き起こせばそれはそれで問題になる。そこで9月3日に五大老・五奉行との間で起請文が取り交わされ、ひとまずこの問題は沈静化した。

  • 「十人の衆中と諸傍輩之間において、大小名によらず、何事に付いても、一切誓紙取遣わすべからず」

この際に交わされた起請文の内容であるが、つまり多数派工作や私党形成を禁じているのである。ただし、家康ばかり責められているが、最初に私党形成や多数派工作をしたのは明らかに輝元、三成らなのである。

そして、これを皮切りに輝元、三成らはやりたい放題をやっていくようになった。9月2日の内藤隆春書状にはまだ続きがある。

已前申し下し候國分などの事、みな徒事に罷りなるべく候。先々目出たく候(秀吉の遺命による所領の分配が全て白紙化されました。めでたいことです)

つまり、9月2日の時点で秀吉の遺命である毛利領分配が「白紙化」されていたというのである。秀吉が死去したからと言って遺命が取り消されるなどあり得ないし、それができるのは後継者の秀頼だけだが、秀頼はまだ6歳の子供でそんな政治的判断ができるはずがない。この間の経緯については二次史料も無いのでわからないが、輝元と三成ら奉行が何らかの政治的工作をした可能性が濃厚である。

9月10日に輝元は叔父の元康宛書状を出しているが、そこでも次のようにある。

御方之儀、其元すき候わば、そと一夜帰に御出候べく候、別条なく候、国分の事に付いて、存じ寄る儀ども申談べく候(大坂で普請に従事していた元康に伏見にいた輝元から、秀吉遺命による所領分配について相談したいので一泊の行程で輝元の所に急いで来るように)

その後も日付不明だが、恐らく同年の内に輝元が元康に出した2通の書状で以下のようにある。

昨日、安国寺恵瓊の所に福原広俊を派し、毛利領国についての不満を述べさせたが、恵瓊は同意しない。秀元も物事の理非を説いて少しも言うことを聞かない。これは領国を維持する方法に関する意見の相違であり、小早川領の問題は貴方(元康)の考えが尤もです。下々の者のことも忘れてはいませんが、それぞれの区分があることです
秀元の所領分配について、秀元は同意できないと威圧的な態度で反対し、恵瓊もこれに同意している。私(輝元)は現在の情勢に合わせて言っている。だから、秀元の言い分は全く構わず捨て置いている。状況に合わせているのになぜ秀元はこのように反対するのか。毛利家中のため、家族のため、さらには秀元自身のためでもあるので、このように言ってるのだ。恵瓊が秀元に意見している途中だそうなので、さらに恵瓊に合わせて貴方(元康)にお伝えし、貴方の意見をお聞きしたい

つまり、秀吉遺命による秀元への所領問題を、輝元は三成らと結んで自分の都合のいいように改めたが、秀元がその見直しに強く反対している、恵瓊も当初は秀元についていたが、今は秀元を何とか説得しようとしている、とあるのだ。それと、小早川家旧臣をどうするかの問題もあった。国司元信のように秀秋に仕えた者もいたが、全ての家臣を輝元が引き取るというのは所領の問題が多すぎて不可能なため、一部を筑前蔵入地代官となっていた三成に召し抱えさせる処置をとっている。ただ、輝元は所領だけでなく人事まで自分の意のままにしようとしていたらしい。秀吉は隆景の家臣団は全て秀元が引き取れ、としていたが、輝元は9月6日に木原元定を三原に派遣して統治を行なわせており、隆景の家臣団を自分の好きなように恣意的に毛利家に編入しようとしていた可能性がある。

日付不明だが、2通の書状の後に出した元康宛輝元書状には以下のようにある。

昨日、恵瓊の所で再度話し合いました。その内容を今、福原広俊と堅田元慶が来たので、貴方(元康)にもお伝えします。きっと同意していただけるでしょう。とことん話し合った結果です。性急に判断したわけでも、一部を見て判断したわけでもありません。貴方は不審に思われるでしょう。返事によっては福原と話し合って下さい

この書状から、恐らく輝元はこれまで秀元に分配する所領を元康に相談してきた内容と異なる決定を下した可能性があり、恐らくそれを弁解しているのだと思われる。慶長4年(1599年)1月23日、輝元は秀元に所領を分配している。分配したのは出雲、隠岐伯耆3郡、そして安芸廿日市1万石である。秀吉の遺命は出雲と石見であり、これだと4万石は減らされている勘定になる。輝元は秀元の不満をやわらげるために廿日市を加えた可能性がある。廿日市は秀元の実父・穂井田元清の旧領で、元清没後は実子の秀元が相続していたので、別に改めて輝元から与えられる必要は無い。秀吉も遺命でそれを示唆していないので、そのまま受け継いで何の問題も無かった。輝元は改めて「与える」形をとることで何とか秀元をなだめようとした可能性がある。秀元は不満もあったろうが、受け入れるしかなかっただろう。

決着[編集]

慶長4年(1599年)閏3月、前田利家が死去し、それにより加藤清正らにより七将事件が引き起こされ、三成は奉行職を解職されて佐和山城に隠退することになった。これらの騒動により実権を握った家康は、沈静化していた毛利家の所領問題に対して改めて介入を行なった。

まず、慶長4年(1599年)4月に出されたと思われる元康宛輝元書状である。

秀元については恵瓊が強く言われました。奇特なことで、三原は広島に近くて役に立つ場所なので、長門に周防の一部を加え、出雲・伯耆・隠岐の石高相当を分配するとの内意です。3か国の石高にするなら、周防の肥沃な場所は全て分配することになるので、そのような訳を恵瓊に言ってほしいと考えています。貴方(元康)が言うこともやむを得ないことですが、検地による打ち出し分もまだ確定していないので、どう見ても、3か国の石高にはなり難いでしょう。この段階で行き詰まっています。どうしたらよいでしょうか。彼方も急がれています。尤もなことで、私も急いで決着させたいと思います。昨日のお返事を見ました。家康がこれほど言ってくるのも上様(秀吉)の遺命だからということなのでしょう。一向に(広島に)下向できません。非常に難しく、今後が心配です

家康は、秀吉の遺命であるからその通りに所領を分配せよ、と輝元に迫ったことがうかがえる。実は輝元による所領分配に不満を抱いた秀元は家康に接近しており、その分配を秀吉の遺命通りに行なわせるように家康に働きかけたと見られている。それは6月に秀元が輝元から家康と通じているのではと詰問されて起請文を提出させられている(秀元は家康との連携を否定)ことからも明らかである。

今度家康に対し、我等使として宗薫申す仔細どもこれある由候哉、中々言語絶し候。殊にケ條持参の由候、兎角御理意能わず趣迄候、この段貴僧仰せ分けらるべき事肝要候。かようの儀、内々所存の外候の條、強いて申し分けるに及ばず候瞞、自然御不審においては是非なく候間、心底の趣かくのごとく候

家康はあくまで「秀吉の遺命通りにせよ」と輝元に迫った。家康は秀吉の遺命という大義名分を利用して毛利家の分断を策した可能性もあるが、とにかく理は家康にある。しかし、輝元にとって長門と周防の大半を秀元に与えるというのは、自己の直轄地の問題や当主としての権力問題からとても受け入れられなかった。

輝元が元康に出した別の書状がある。

貴方(元康)へ西以節(秀元の家臣)が言ってきた内容について詳しく聞きました。どうしても長門と吉敷一郡でなければ、それ以外ではどうしても成り立ちません。吉見氏を除いた場合、この前のような騒ぎになるので、そのままにしておくのが良いと思われます。どう思われますか。私(輝元)でも秀元でも(毛利氏であることは)同様です

輝元は、長門や吉敷郡に所領があった吉見広頼らを秀元の家臣団に編入することで、輝元の直轄領が減少することを最小限にしようとしていたのである。

結局、慶長4年(1599年)6月15日、秀元の所領は長門、周防吉敷郡、安芸・備後・周防にあった穂井田元清の所領を与えることで決定した。これは実をいうと出雲・伯耆・隠岐の所領よりさらに少なく、秀元が不満を再度抱いてもおかしくはなかったが、広島に近く良港に恵まれている長門や周防を得たためか、秀元は了承している。こうして、秀元処遇問題は一応の決着を見たが、関ヶ原に繋がる徳川家康vs毛利輝元の構図を作り上げることにもなったのである。

脚注[編集]

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注釈[編集]

出典[編集]

  1. 秀吉は輝元より秀元を信頼していたふしがある。慶長3年8月9日の秀吉と大名衆に対面の際、左の座に徳川家康前田利家宇喜多秀家らという五大老のうち3人までが着座しながら、輝元は右の座に着座、秀元が左の座に着座している。つまり、陪臣の秀元が家康らと同格に近い扱いということである。