春秋園事件

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春秋園事件(しゅんしゅうえんじけん)とは、昭和初期に起きた力士争議である。

概要[編集]

1923年に起きた力士の養老金(退職金)に関する騒擾(三河島事件)では力士の要求が通ったものの、騒動前の大日本相撲協会の会計は大福帳が現役のどんぶり勘定で、前近代的なシステムがまかり通り、相撲茶屋は協会とズブズブの癒着ぶりだった。力士の給与も少なく、引退後の生活も不安定であり、現役力士も師匠の悲惨な生活を目の当たりにして、将来の生活に不安を抱いていた。また、軍人が就任した大日本相撲協会の会長も名誉職的な存在で、前近代的な体勢の牽制は行わなかった。

事態の推移[編集]

そうした力士の不安を汲み取った天竜三郎が率いり、それに賛同した幕内力士らが東京大井町の中華料理店「春秋園」に立て篭もった後、髷を切り落として本場所をボイコットし、当時の大日本相撲協会を脱退して、大阪を拠点に新興、革新力士団を1932年に結成して興行を行った。
協会側は急遽、十両力士を幕内に昇格させたがそれでも足りず、幕下の力士養成員まで幕内に昇格させて事態を乗り切った。一方、革新・新興力士団が合併した大日本相撲連盟の興行はやがて下火になり、天竜の蜂起は失敗に終わり、1938年に天竜は満州に渡った。

戦後の影響[編集]

昭和の大横綱、双葉山定次はこの事件で急造平幕に昇進した。

事件の首謀者の天竜三郎は戦後はTBSラジオの専属となり、辛口の相撲解説者として活躍。1957年に協会の運営等が問題になった際、同年4月に行われた衆議院文教委員会で元阿久津川と共に参考人として旧態依然の体制について発言した。

事件以降、大相撲では、元安藝ノ海の藤嶋、元阿久津川の佐渡ヶ嶽や貴乃花光司のようにやり手の年寄が協会執行部に反発する事象は起こるものの、この事件や大正期の三河島事件のように力士側が同志で発する係争は、戦後ほぼ消滅した。

1957年5月に、時津風理事長となった双葉山は、現役中のこの事件に鑑み、天竜が要求した相撲茶屋株式会社化を行い[注 1]、関取を歩合制の報酬から毎月支給の給与制に切り替えるといった今の力士の生活に関わる改善を行い、簿記の知識を身につけた武蔵川理事(元・出羽ノ花)により協会の会計の近代化も実施した。
これにより関取の生活は安定した一方、平幕で番付の枚数による給与格差を設けなかったため、ハングリーさが喪失されて、取組に淡白になるサラリーマン力士が増加した要因と考える人もいる。

式秀部屋力士集団脱走事件[編集]

女将モラハラが発端となって2020年8月5日に発生した式秀部屋力士集団脱走事件は、相撲部屋内の騒動だが、力士らが立て籠もったのがカラオケボックスだったことから、マスコミやネットによって「令和の春秋園事件」と報じられた。ベースボールマガジン相撲 (雑誌)四コマ漫画を描いていたやくみつるはこの立て籠もりのカラオケボックスの名称からこの事件の新名称を作ろうとした。

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  1. この結果、茶屋は屋号から表向き相撲案内所○号の名称となったが、一方で、案内所主の継承や砂かぶり席に優先割り当てのある維持員制度の継続など茶屋時代からの利権構造が変わらないため、現在も株式会社化はザルと批判し、九州場所のようにプレイガイド販売への完全移行を主張する人もいる。

外部リンク[編集]