細井宗一

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細井 宗一(ほそい そういち、1918年1月2日 - 1996年12月26日)は、労働運動家。元・国鉄労働組合(国労)中央執行委員。

人物[編集]

日本共産党[1]国労内の少数派閥である革同のリーダー[2]。国労本部書記長や総評事務局長を務めた富塚三夫とともに「国労の顔」といわれた[3]。表舞台に立った富塚に対して細井は主に裏舞台で活躍し、「国労の"知恵袋"」[1]「国労の諸葛孔明[4]のような存在だった。順法闘争という戦術を編み出したのも細井であるといわれている[1]。総評大会では全日自労中西五洲とともに反主流派の論客として知られた[5]。理論的には堀江正規に近く、共産党系でありながら柔軟な立場をとった[6]。なお陸軍時代は後に首相となる田中角栄の上官にあたり、ともに新潟出身で1918年生まれの2人は堅い友情を結んだ。戦後も田中との付き合いが続き、国労と田中の間のパイプ役も担った[7]

国鉄当局側で労働組合と対峙した宗形明は次のように細井を評価している。

私の考えでは、国鉄労働運動が生んだ最高の人材は、国労の細井宗一氏と動労松崎明氏が双璧であると思う。何と言っても、この両者は、細井氏が革同共産派という少数派閥、松崎氏は動労という対国労比では圧倒的少数組合に生きながら、国鉄労働運動に、全く個人としての才能と力量によって絶大な影響力を及ぼしたからである。この辺りのことについては、私は数年前細井氏の盟友富塚氏に依頼され、「細井宗一追悼文集」に寄稿したことがある[8]

経歴[編集]

新潟県糸魚川市の貧乏な漁師の家に生まれた[1]。新潟県立糸魚川中学校卒業[6]。第四高等学校に進学したが、父親の死で学資が続かず1年で中退し、国鉄富山機関区の罐焚きとなった。1938年新設の陸軍予備士官学校に入学。同年暮に卒業し、士官候補生として盛岡騎兵第3旅団24連隊に配属された[3]。このときの部下に後に首相となる田中角栄がおり、何かと規律を侵す田中をたびたび庇い、終生の友となった[7]。1939年3月に満州北辺の富錦に渡り、同年5月にノモンハン事件の発生を受けソ連との国境線にある平陽鎮に移動した。田中は1940年11月にクルップス肺炎で倒れ内地に送還。細井は陸軍大尉に昇進し、敗戦時は陸軍少佐で牡丹江の第五部隊の軍参謀を務めていた。日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したソ連軍に捕まり、シベリア経由でモスクワの収容所に収監された。抑留中にロシア語を学び、ニコライ・オストロフスキーの小説『鋼鉄はいかに鍛えられたか』に感銘を受けたことからマルクス=レーニン主義を学び始めた[3]

1948年春に復員し[3]、国鉄糸魚川機関区事務掛として勤務[6]。1949年から組合活動に参加し[2]国鉄労働組合(国労)金沢地方本部の専従となった[3]。同長野支部執行委員、北陸地本副委員長を経て[6]、1951年北陸地本委員長[9]。1952年7月の国労第11回大会で中央執行委員。1979年に退任するまで27年間にわたって在任したが、部長職には就かずヒラの執行委員を通した。国労内の少数派閥である革同共産党系)に属したが、国労の主導権を掌握した民同左派(社会党系)のリーダー・岩井章とコンビを組んだ[2]。1955年の総評第6回大会で事務局長が高野実から岩井章に替わり、高野派と共産党系が合流して総評反主流派が形成された後、その中核的な論客として知られた[6]。1957年の国鉄新潟闘争では国労本部から現地に派遣され、河村勝新潟鉄道管理局長と事態収拾の交渉にあたったが、一時休憩中に国鉄本社と警察の協力で5人の組合員が逮捕されたたため、新潟地本にスト突入を指令して東京に引き揚げた[10]。新潟闘争敗北後に解雇[6]

1957年と1961年の世界労連大会に日本代表団長として出席[6]。1964年に共産党が公労協の「4・17スト」に反対する「4・8声明」を発表したため、同年7月の国労第25回全国大会で革同の中央執行委員である細井宗一と子上昌幸の指導責任が追及されたが、富塚三夫東京地本書記長の尽力によって除名処分を免れた[4]。以降、民同の富塚とコンビを組んでマル生闘争やスト権ストなどを指導した[11]。1965年以降、国労本部内で主として企画を担当[6]。現場闘争のバイブルといわれる『職場闘争の手引き』(いわゆる黒表紙)の編纂に従事し、1968年に国鉄当局と交渉して職場レベルでの団体交渉制度といえる「現場協議制度」の協約締結を勝ち取った[1]

1975年に統一戦線理論に基づく国労新綱領の策定を指導[6]。1976年には前年のスト権ストの挫折を踏まえ、"幅広い国民諸階層との連携"を目指した「民主的規制」と呼ぶ新しい方針を提起した。1978年7月の国労第40回定期全国大会は「民主的規制・自主規律」か「反合理化・職場抵抗」かで激しい論争となり、向坂派の強い反対で「民主的規制」は「国鉄の民主的政策要求」に改められた[12]高木郁朗は「民主的規制」の方針が実現できなかったことが、国鉄分割民営化の下での国労の分裂・弱体化につながったとしている[13]。1979年7月の国労第41回定期全国大会で中執を退任[14]。このとき『朝日新聞』は「国労の〝カマ〟たき続け二七年/裏方に徹した闘士、惜しまれ引退」「労使関係超え慕われる、まとめ役」という異例の特集記事を組んだ[2]。中執退任後は「自ら設立した組合員向けの保険代理会社を国労会館地下に構え、武藤山崎体制をサポートした」[14]

1996年12月25日、忘年ゴルフの最中にグリーン上で倒れ、78歳で亡くなった。死因は脳梗塞。若い頃から酒も麻雀も嫌いだったが、富塚に教えられて55歳でゴルフを覚え、健康のために続けていた[11]

新日和見主義事件[編集]

1972年の新日和見主義事件に連座して共産党から査問を受けたとされる。元全学連委員長・民青中央常任委員の川上徹は細井が査問を受けたことについて、「民青機関誌『青年運動』にもときどき登場していたことが、何らかの原因になっていたのか。それ以上のことは分からなかった。細井は、「闘う国労」のイメージを象徴する人物として、学生運動の中では人気が高かった」と述べている[15]。また青年学生運動以外で新日和見主義事件に連座した人物について、「僕が知っているのは、労教協森住和弘、国労の細井宗一、平和委員会熊倉啓安JPの川端治(山川暁夫)・高野孟(香月徹)あたりだけど、みんな主張はそれぞれだったと思う。議論してすりあわせたなんてことは一回もない」と述べている[16]

樋口篤三は戦後労働運動の指導者について、共産党系では「鈴木市蔵中西五洲が創造性をもち、国労革同の細井宗一も「新日和見主義事件」(七二年)頃までに果たした役割は大きかったと思ってきた」と述べている[17]

共産党離党[編集]

1967年時点では共産党員だったとみられるが後に離党したとされる[18]。上述の新日和見主義事件で査問を受けたのであれば、1972年以降に離党したことになる。

動労委員長の松崎明は次のように述べている。

細井宗一さんは、私が共産党を辞めるときには、説得する態度でしたよ。〔中略〕だけど、私にいわせると、細井さんはほぼ社民だと思っていたんです。一九五七年の新潟闘争までは私は素晴らしい人だと思っていましたよ。だけどその後の「四・八声明」ともなると、これはダメ。革同の中でもいい人はいましたよ。広島の本間久雄さんとかはそうですよ。彼らは「四・八声明」でも党に抵抗したのかもしれない。でも結局押し切られるわけでしょう。細井さんが書いた『労働組合幹部論』は一応評価します。でも、その後、後は党からも離れて、結局は富塚さんに救われるわけですね。これでもう命脈尽きた、私の見方はそういう見方です[19]

元国労企画部長の秋山謙祐は次のように述べている。引用文中の「除名騒動」とは国労で「4・8声明」に与した共産党員の除名騒動のこと。

 除名騒動後の細井さんと共産党の関係がどうだったのか、誰も聞かなかったし、細井さん自身も話さなかったが、

「細井の旦那は細井の旦那」

 誰もが納得して、一目も二目も置いていた[20]

著書[編集]

編著[編集]

  • 『新しい時代をきりひらく労働組合幹部論』(学習の友社、1971年)

分担執筆等[編集]

  • 阿部行蔵、細野武男編『全学連――怒る若者』(緑風社、1960年)
  • 国鉄労働組合編『国鉄労働組合の現場交渉権――その理論と闘い』(労働旬報社[労旬新書]、1968年)
  • 堀江正規編集責任『労働組合運動の理論 5 労働者階級の組織化』(大月書店、1970年)
  • 堀江正規編集責任『労働組合運動の理論 7 社会変革と労働組合』(大月書店、1970年)
  • 記念論文集刊行委員会編『労働運動と労働者教育をめぐる諸問題――柳田謙十郎先生喜寿祝賀記念論文集』(学習の友社、1971年)
  • 労働教育センター編『労働運動を語る――組合幹部五十人の提言』(労働教育センター、1975年)
  • 国鉄労働組合編『国鉄マル生闘争資料集』(労働旬報社、1979年)

出典[編集]

  1. a b c d e 牧久『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』講談社、2017年、41-42頁
  2. a b c d 升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使――ストライキのあった時代』明石書店、2011年、65-66頁
  3. a b c d e 前掲『昭和解体』51-53頁
  4. a b 前掲『昭和解体』57-59頁
  5. 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』明石書店、2015年、274-275頁
  6. a b c d e f g h i 高木郁朗「細井宗一」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、1238-1239頁
  7. a b 前掲『昭和解体』26、54頁
  8. 宗形明『もう一つの「未完の『国鉄改革』」――JR東日本革マル疑惑問題を検証する』月曜評論社、発売:高木書房、2002年、22頁
  9. 芦村庸介『労組幹部――その論理と行動を斬る』日新報道、1973年、304頁
  10. 前掲『昭和解体』47-49頁
  11. a b 前掲『昭和解体』55-57頁
  12. 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』情報センター出版局、2009年、120-130頁
  13. 高木郁朗「細井宗一」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1439頁
  14. a b 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』133頁
  15. 川上徹『査問』筑摩書房、1997年、122頁
  16. 川上徹、大窪一志『素描・1960年代』同時代社、2007年、339頁
  17. 樋口篤三『樋口篤三遺稿集 第1巻 革命家・労働運動家列伝』同時代社、2011年、19頁
  18. 有賀宗吉著、鉄労友愛会議編『国鉄民主化への道――鉄労運動30年の歩み』鉄労友愛会議、1989年、448頁
  19. 松崎明宮崎学『松崎明秘録』同時代社、2008年、161頁
  20. 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』117頁

関連文献[編集]