村上寛治
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村上 寛治(むらかみ かんじ、1915年6月1日[1] - 2014年8月4日[2])は、労働ジャーナリスト、労働評論家。元・朝日新聞労働記者、元・国鉄労働組合(国労)顧問。
経歴[編集]
福岡県生まれ。1939年法政大学経済学部卒業[3]。1941年朝日新聞社入社。ソウル、ハルビン、長春支局に勤務[4]。何度か軍に召集され、西鹿児島で敗戦を迎えた[5]。1945年東京本社社会部に復帰。同年9月に労農記者となった[4][6]。1973年朝日新聞社を退職[7]、その後も労働評論家として活躍した。1981年に『国労運動史の中の人々』を刊行した後、国労のアドバイザーとしても活躍し、その功績が認められ顧問に迎え入れられた。1989年に「国鉄清算事業団闘争に連帯する会」が発足した際は呼びかけ人に名を連ねた[2]。
2014年8月4日、99歳で死去。2015年1月27日、村上義光(元国労本部委員長)・富塚三夫(元総評事務局長)・武藤久(元国労本部委員長)が呼びかけ、日本労働ペンクラブ稲葉康生代表・国労・鉄道退職者の会の協賛で「村上寛治さんを偲ぶ会」が旧総評会館で開かれ、約100人が参加した[2]。
人物[編集]
安藤紀典によると、元総評事務局長の高野実と親しく、「日本で最初の労働記者」を自認していた[8]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『日本共産党』(朋文社、1956年)
- 『総評物語(上・下)』(日本評論新社、1960-1961年)
- 『国労運動史の中の人々』(平原社、1981年)
- 『有楽町は燃えていた――ある労働記者の回想』(労働教育センター、1996年)
- 『労働記者の戦後史――続・有楽町は燃えていた』(労働教育センター、1998年)
共著[編集]
- 『總評』(井出武三郎、清水一共著、東洋経済新報社、1953年)
- 『昭和の戦後史 第2巻 暗転と従属』(矢田喜美雄ほか共著、汐文社、1976年)
- 『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』(六本木敏、鎌倉孝夫、中野洋、佐藤芳夫、高島喜久男共著、社会評論社、1988年)
編著[編集]
- 『総評労働運動三〇年の軌跡』(小野道浩、高木郁朗、山田宏二共編著、労働教育センター、1980年)
- 『斎藤一郎著作集(全15巻・別巻)』(斎藤一郎著、増山太助共責任編集、あかね図書販売、2005年-2011年)
分担執筆等[編集]
- 労農記者懇話会『労働運動見たまま(第1集)』(時事通信社、1947年)[9]
- 白鳥令編『革新勢力』(東洋経済新報社[東経選書]、1979年)
出典[編集]
- ↑ 日外アソシエーツ編集部編『新訂増補 人物レファレンス事典 昭和(戦後)・平成編 せ~わ』日外アソシエーツ、2003年、2423頁
- ↑ a b c “村上寛治さんを偲ぶ会(PDF)”. 『国労新聞』3135号 (2015年2月3日). 2019年12月5日確認。
- ↑ 『総評物語』下巻
- ↑ a b 『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』
- ↑ 藤森研「メディアと戦争」『不戦』149号、不戦兵士・市民の会、2008年
- ↑ 『国労新聞』3135号によれば10月社会部に復帰し労働運動担当の記者となった
- ↑ 村上寛治「平和と不変の政治体制を求める「チュチェの国」(北朝鮮ルポ)」『朝日ジャーナル』1983年7月号
- ↑ 安藤紀典「東大闘争点描(8) 5.書き遺しておきたいこと」 フロント(社会主義同盟)機関誌『先駆』856号(2009年12月)
- ↑ 二村一夫「戦後社会の起点における労働組合運動」、『二村一夫著作集』