富塚三夫
富塚 三夫(とみづか みつお、1929年2月27日 - 2016年2月20日)は、労働運動家、政治家。元・国鉄労働組合(国労)書記長、日本労働組合総評議会(総評)事務局長、衆議院議員(2期)。
経歴[編集]
福島県伊達郡国見町小坂の農家の3男として生まれる[1][2]。4男4女の8人きょうだいの4番目[1][3]。先祖は伊達藩の家老を務めたが、祖父の放蕩生活で貧困生活を余儀なくされた[1]。1943年国見町国民学校高等科を卒業して国鉄に入り、東北本線藤田駅の駅手(雑務掛)となる[2][3]。1946年仙台鉄道教習所電信科卒。1949年同教習所中等部業務科卒[4]。1952年国鉄東京電務区電信係[注釈 1]。1954年明治大学政治経済学部経済学科(二部)卒業[注釈 2]。国労東京電務区分会青年部長を務めた後、新橋駅に転勤[3]。1956年日本社会党に入党[4]。1957年国労新橋支部執行委員に選出され、以降は労働運動に専念する[5][注釈 3]。
国労東京地本の活動家として頭角を現し、1959年国労東京地本執行委員、1963年同書記長、1966年同委員長となる。この間、1957年5月に3ヶ月の停職処分を受けるなど6回の処分を受け、1965年に免職となる[3]。1966年に「自主参加」方式のストライキを初めて組織する[6]。1969年2月に国鉄当局が戦闘的な東京地本の分断を狙って東京鉄道管理局を3分割したが、東京地本が3局との交渉に立って当局の分断工作を跳ね返した[7]。国労本部中央委員を経て[1]、1969年国労本部企画部長に就任し、岩井章のあとを継いで民同フラクの責任者となる[8]。1970~1971年のマル生反対闘争を指導し勝利に導く。1973年国労書記長となり、公労協代表幹事として1975年のスト権ストを指導したが、敗北に終わった[5]。1976年7月総評事務局長。1981年1月財団法人総評会館理事長[9]。1983年7月総評副議長[4]。
1983年12月の第37回衆議院議員総選挙に神奈川5区から社会党公認で立候補し初当選。1986年7月の総選挙は落選するも、1990年2月の総選挙で返り咲いた。1990年社会党国際局長[2]。1993年7月の総選挙は落選。1996年10月の総選挙では神奈川15区及び比例南関東ブロックから民主党公認で重複立候補するも落選し、政界を引退した[2]。2009年ポーランド大統領レフ・カチンスキより「十字型功労賞」授与[2]。
2016年2月20日[10]、胃がんのため死去[11]、86歳。
人物[編集]
- 民同(社会党系)左派に所属したが、革同(共産党系)の細井宗一とは党派を超えた盟友関係にあった[3]。岩井と細井はともに「国労の顔」と呼ばれた[12]。両者の盟友関係は1964年に共産党が公労協のストに反対して混乱を引き起こした後、国労大会で除名処分が確実と見られていた細井を東京地本書記長だった富塚が助けたことから始まった[13]。
- 「国労のドン」[11]「国鉄のラスプーチン」「総評のカクエイ」「国鉄を悪くした極悪人」「妥協の天才」[14]とも呼ばれた。
- ゴルフを愛好し、週刊誌などで叩かれたこともあった。盟友の細井宗一にもゴルフを教えた[11]。
- 1976年7月の総評大会で国労の富塚三夫が事務局長、日教組の槇枝元文が議長に選出され、ともに官公労出身であるため「官・官コンビ」と呼ばれた。槇枝・富塚コンビは民間先行の労戦統一の流れに抗しきれず、「柔軟な総評路線」「開かれた総評」の名の下に総評運動の転換を推進した。富塚は1979年7月の総評大会で「総評のウイスキーを同盟の水で割る」とする「水割り論」を唱えた[15]。1981年6月に統一推進会への参加条件を示した「補強五項目」を提案した[16]。
- 1980年11月に専門家とともにポーランドを訪問、「連帯」のレフ・ワレサ議長と面会し、「連帯」への支援を申し入れた[17]。ワレサ議長を日本に招待し[6]、1981年春にワレサ議長をはじめとする「連帯」代表団が日本を訪問した[17]。元「連帯」マゾフシェ地区国際局次長の梅田芳穂は、「「連帯」30 周年を迎えるにあたり、特に総評議長・槇枝元文氏、同盟委員長・宇佐美忠信氏、中立労連の竪山利文氏、新産別の水戸信人〔ママ〕氏、総評事務局長・富塚三夫氏、同盟の田中良一氏、その他産別労働組合を指導した活動家諸氏、そして先にその名前を挙げた、当時の全国電気通信労働組合委員長、後の「連合」委員長・山岸章氏に敬意を表すべきである」と述べている[18]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『富さん奮闘記――総評事務局長オルグ日誌』(労働教育センター、1979年)
- 『ワレサの挑戦――人間がよくなる社会をめざして』(平原社、1981年)
- 『国鉄再建への時刻表』(かんき出版、1982年)
- 『とみさんざっくばらん』(平原社、1983年)
- 『政権をめざして』(平原社、1985年)
共著[編集]
- 『スト権奪還闘争』(籾井常喜、中山和久共著、労働教育センター、1975年)
- 『総評の新時代と官・官コンビ――槇枝元文vs富塚三夫』(槇枝元文共著、日刊労働通信社[対談シリーズ]、1977年)
- 『80年代の構想――新しい革新の選択』(大内秀明、高木郁朗共著、毎日新聞社、1980年)
- 『自立への熱望――ポーランド1980年』(大内秀明、新田俊三、高木郁朗共著、国際文化出版社、1981年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 『戦後史のなかの国鉄労使』では1951年東京電務区に転勤。『富さん奮闘記』では1952年東京電務区電信係。「総評運動と社会党と私」では1952年東京電務区勤務。『日本近現代人物履歴事典』では1952年東京電務局電信係。『「現代日本」朝日人物事典』『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ』では1953年東京電務区に転勤。
- ↑ 『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ』では1954年明大政経学部卒。『富さん奮闘記』では1954年明大政経学部経済学科卒。「総評運動と社会党と私」では1955年3月明大政経学部(2部)卒。『日本近現代人物履歴事典』では1956年3月明大政経学部(夜間)卒。『戦後史のなかの国鉄労使』では1956年明大政経学部卒。
- ↑ 「総評運動と社会党と私」では1954年国労新橋支部青年部長、1956年同書記長。『日本近現代人物履歴事典』『昭和解体』では1958年国労新橋支部書記長。
出典[編集]
- ↑ a b c d 富塚三夫『富さん奮闘記――総評事務局長オルグ日誌』労働教育センター、1979年
- ↑ a b c d e 富塚三夫「証言 戦後社会党・総評史 総評運動と社会党と私 : 富塚三夫氏に聞く(上)(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』No.678、2015年4月
- ↑ a b c d e 牧久『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』講談社、2017年、97-98頁
- ↑ a b c 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、335頁
- ↑ a b ものがたり戦後労働運動史刊行委員会編『ものがたり戦後労働運動史Ⅸ 政策推進労組会議の成立から統一準備会へ』教育文化協会、2000年、57頁
- ↑ a b 高木郁朗「富塚三夫」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、1112-1113頁
- ↑ 前掲『昭和解体』37-38頁
- ↑ 六本木敏、鎌倉孝夫、村上寛治、中野洋、佐藤芳夫、高島喜久男『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』社会評論社、1988年、108頁
- ↑ 沿革 公益財団法人総評会館
- ↑ 訃報:元総評事務局長、富塚三夫さん死去86歳 毎日新聞、2016年2月22日
- ↑ a b c 前掲『昭和解体』55-57頁
- ↑ 前掲『昭和解体』51頁
- ↑ 前掲『昭和解体』57-59頁
- ↑ 高瀬広居編『日本をダメにした新100人 狐狸の巻』山手書房、1983年、15頁
- ↑ 升田嘉夫『戦後史のなかの国鉄労使――ストライキのあった時代』明石書店、2011年、315頁
- ↑ 前田裕晤著、江藤正修聞き手+編集『前田裕晤が語る 大阪中電と左翼労働運動の軌跡』同時代社、2014年、140頁
- ↑ a b 日本・ポーランド関係話題集(PDF) 在ポーランド日本国大使館、2011年10月
- ↑ 梅田芳穂「日本の「連帯」(PDF)」Forum Poland
その他の参考文献[編集]
- 朝日新聞社編『現代人物事典』(朝日新聞社、1977年)
- 現代革命運動事典編集委員会編『現代革命運動事典』(流動出版、1981年)
- 元総評事務局長の富塚三夫さん死去 「スト権スト」指揮(朝日新聞デジタル、2016年2月22日)
- 元総評事務局長の富塚三夫氏が死去(産経ニュース、2016年2月23日)
- 富塚三夫氏が死去 元総評事務局長、元衆院議員(日本経済新聞、2016年2月23日)
関連文献[編集]
- 日本労働研究機構編『戦後労働組合運動の歴史――分裂と統一 第2集』(日本労働研究機構、2003年)
- 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』(情報センター出版局、2009年)
- 高木郁朗監修、教育文化協会編『日本労働運動史事典』(明石書店、2015年)
- 五十嵐仁、木下真志、法政大学大原社会問題研究所編『日本社会党・総評の軌跡と内実――20人のオーラル・ヒストリー』(旬報社[法政大学大原社会問題研究所叢書]、2019年)