鈴木市蔵
鈴木 市蔵(すずき いちぞう、1910年3月25日 - 2006年1月29日)は、労働運動家、政治家。
国鉄労働組合(国労)副委員長、日本共産党中央委員、参議院議員などを歴任。
経歴[編集]
神奈川県真鶴町生まれ。1935年国鉄労働者となり、品川検車区に勤務[1]。敗戦時は品川検車区(のちの品川客貨車区)の指導助役だったが、1946年1月1日品川検車区労働組合を結成して組合長に就任[1][2]。国鉄労働組合総連合会(のちの国鉄労働組合)の結成に参加[3]、国鉄東京地方労働組合執行委員[4]。九月闘争を本部闘争委員として指導し、7万5千人の首切りを撤回させた。1947年二・一ストを中央闘争副委員長として指導[2]。1947年6月国労結成時に国労執行委員[5]、1949年4月国労琴平大会で国労副委員長に就任[1]。同年7月18日行政機関職員定員法により解雇。国労の主導権を握った民同派は被解雇者を組合員とは認めないとする「指令0号」を出し、共産党の徳田球一書記長や春日庄次郎労働組合部長は別組合の結成を主張したが、国労の分裂に反対し統一を堅持した[2]。
共産党の労組フラクションの代表格であり[2]、1948年12月の第6回党大会で綱領起草委員に選出(徳田球一・野坂参三・志賀義雄・宮本顕治・伊藤律・竹内七郎・渡部義通)。1950年6月7日臨時中央指導部員。6月18日臨中が招集した全国代表者会議でテーゼ起草委員に選出(椎野悦朗・輪田一造・渡部義通・堀江邑一・多田留治)。1951年9月3日に占領軍政策違反として他の臨中指導部員や国会議員ら17名とともに指名手配され、地下潜伏。1955年7月の六全協で中央委員候補[6]。1958年7月の第7回党大会で中央委員、常任幹部会員、労働組合部長[2]。
1959年6月の参議院議員選挙に全国区から立候補して落選するが、1962年7月に当選[4]。1964年公共企業体等労働組合協議会(公労協)のストライキに反対する共産党の「4・8声明」に対し党内で反対[2]。同年5月21日、衆議院本会議で党議に反して部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じた志賀義雄に同調したたため、志賀とともに党議違反で除名された。5月25日、参議院本会議で条約批准への賛成票を投じた。7月1日、志賀とともにソ連支持の「日本のこえ同志会」を結成。12月2日、志賀、神山茂夫、中野重治とともに「日本共産党(日本のこえ)」を結成した。1968年4月の参院選には立候補せず政界を引退。
晩年はアルツハイマー型認知症を患い、2003年に「鈴木市蔵さんの介護を支える会」が結成された。呼びかけ人は有賀宗吉、いいだもも、大井武正、大賀正行、武井昭夫、宝樹文彦、常岡雅雄、原宏、増山太助、村上寛治、村上義光、樋口篤三、福田玲三、吉川勇一、事務局長は渡部富哉[7]。
樋口篤三は戦後労働運動の指導者について、共産党系では「鈴木市蔵、中西五洲が創造性をもち、国労革同の細井宗一も「新日和見主義事件」(七二年)頃までに果たした役割は大きかったと思ってきた」と述べている[8]。
著書[編集]
- 『シグナルは消えず――国鉄闘争秘録』(五月書房、1949年/日本のこえ出版局、1973年)
- 『ソ連翔けある記』(新日本出版社、1960年)
- 『みなさんに訴える――共産主義者の良心と信念』(志賀義雄共著、刀江書院、1964年)
- 『証言2・1ゼネスト』(亜紀書房、1979年)
- 『下山事件前後――レッドパージと国鉄労働運動』(亜紀書房、1981年)
- 『下山事件前後』(五月書房、2003年)
- 『占領下の労働運動――国鉄労働者の栄光と挫折』(久米茂編集・解説、占領史研究会、1983年)
- 『高揚と挫折(4冊)』(高揚と挫折刊行委員会編、ウニタ書舗、1991年)
出典[編集]
- ↑ a b c 鈴木市蔵『下山事件前後』五月社、2003年
- ↑ a b c d e f 樋口篤三『樋口篤三遺稿集 第1巻』同時代社、2011年
- ↑ 鈴木市蔵 コトバンク
- ↑ a b 高木郁朗「鈴木市蔵」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年
- ↑ 東京地方労働組合評議会編『戦後東京労働運動史――東京地評の25年』労働旬報社、1980年
- ↑ 小山弘健著、津田道夫編・解説『戦後日本共産党史――党内闘争の歴史』こぶし書房(こぶし文庫 戦後日本思想の原点)、2008年
- ↑ ご案内92鈴木市蔵さんをご存知の方へ 吉川勇一のホームページ
- ↑ 樋口篤三『樋口篤三遺稿集 第1巻』同時代社、2011年、19頁