国鉄分割民営化
国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)とは、1987年に当時公共企業体であった日本国有鉄道(国鉄)が複数の法人に分割、民営化された出来事である。
概要[編集]
分割民営化により、国鉄は、JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州・JR貨物およびそれらの子会社・関連会社に分割、民営化され、鉄道債券など多額の国鉄債務の処理のため日本国有鉄道清算事業団が創設された。
表向きの理由は国鉄の巨額の累積赤字の解消であるが、目的は、日本労働組合総評議会(総評)、総評に依存していた日本社会党が支援の中核で、労働強化策の「マル生運動」失敗以来、主力の労働組合だった国鉄労働組合(国労)を潰すことであった。マスコミは、マル生運動失敗以降に明るみにされた国鉄職員の「横柄な接客態度」や「職場規律の荒廃」を連日報道して民営化を後押しし、民営化後の全国一社維持、枝線区子会社化案を打ち出した仁杉巌総裁を更迭し、政府寄りの元運輸官僚の杉浦喬也を総裁に据え、国鉄のJRグループへの移行を推進した。
民営化直前の1986年、革マル派最高幹部といわれる松崎明が委員長の国鉄動力車労働組合(動労)は分割民営化反対から賛成の態度に転じ、「松崎のコペ転」(コペルニクス的転回)と言われた。これは国鉄内の革マル派の組織温存、JRグループでの影響力行使が目的であったとされる。
一方、最後まで民営化に反対した国労・全動労・国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉[注 1])組合員は冷遇され、1990年4月にJRに雇用されなかった1047名の元国鉄職員が転籍先の国鉄清算事業団から解雇された。JRに残った組合員も関連会社出向により鉄道現業から外されるなどの差別的と見られる処遇がされたとされる。
清算事業団から解雇された元国鉄職員は2009年の民主党政権発足まで、約20年近く解雇の不当性の是非を争った。この間、高速バスの伸長による夜行列車等の縮減や特定地交線の廃止のさらなる進行、公団工事線の凍結解除がされない情勢の下で、鉄道現業の雇用拡大策といった、彼らの鉄道マンとしての矜持を保持できる救済策はされなかった。結果的に実質1世代交代の年月のみが経過した。
影響[編集]
分割民営化によって創設されたJRグループは国鉄時代よりはるかに鉄道事業の生産性が向上し、鉄道車両の技術革新も進んだ[注 2]。その一方で以下の弊害も生じた。
- 地方雇用の喪失
北海道の音威子府村など、人口に及ぼすほど影響を受けた自治体も少なくなかった。 - 特急幹線輸送・昼行輸送偏重
分民化後は特急輸送が充実し、整備新幹線など幹線整備が進んで、並行在来線や県境区間などのローカル交通や夜行列車が切り捨てられ、普通列車の系統分断も進んた。国鉄自動車局から分割されたJRバスはさらに顕著で、JR東海バスはいち早く一般路線から撤退している。 - 分民化期待への失望
特定地方交通線以外は維持される公約だったが、JR西日本を中心に第三セクター移行や廃線が実施され、JR北海道を中心に駅の廃止も進んだ。また、分民化後のJRの駅間距離縮小も思ったほど進まず、分民化前に「民鉄並み」となる効果を期待した人から失望されている。 - 新たな民業圧迫
JRの本州3社の都市圏路線は国鉄時代の資産を活用して輸送環境が充実したが、運輸省が民鉄並行区間の特定運賃維持など、JR本州3社を贔屓する施策を支援したため、名古屋鉄道、福井鉄道など分民化前より苦境に立たされた民営鉄道事業者も現れた。福知山線列車脱線転覆事故も民鉄並行区間の特定運賃施策によって、JR西日本が驕りを持ち、「マル生運動」以上の労働強化を行ったことが事故の遠因と考えられる。 - JR6社の本拠地以外での格差感
国鉄は東京優遇であったが、民営化後は福岡、高松、大阪、名古屋、札幌が分割各社の本拠地となったことにより、これら5都市の近郊輸送は強化され、国鉄より遥かにサービス向上となった地域もあった。
一方、本拠地以外では、地域ニーズに合わないロングシート車が大量投入された仙台や2010年台になるまで新車が投入されなかった広島などで、冷遇とも受け取れる格差感を招き、JR西日本の姫新線や山陰地域のように県費補助で格差解消をした地域も生じた。
その他[編集]
国鉄分割民営化は、1980年代だけでなく、松永安左エ門が設立した私設シンクタンク「産業計画会議」において1950年代後半にいち早く提言されている。