山崎俊一

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山崎 俊一(やまざき しゅんいち、1931年10月21日 - 1999年[1])は、労働運動家。元・国鉄労働組合(国労)委員長。総評書記の山崎俊一(1926年~)は別人。

経歴[編集]

三重県上野市忍町(現・伊賀市)生まれ。1946年国鉄吹田工場技能者養成所に入学[2]。1948年吹田工場鳳電車職場に配属[3]。1952年大阪府立堺工業高等学校電機科卒業(夜間)。1961年国労吹田工場支部書記長(専従)[2]。1967年大阪地本組織部長[4]。1969年中央本部中央執行委員(企画担当)[2]。1971年春闘ストで解雇、国労中央本部賃金対策部。1977年業務部長、1979年企画部長、1983年書記長[3]。1985年8月委員長[5]。国労本部内では武藤久(山崎の前任の企画部長・書記長・委員長)に次ぐ富塚派の実力者であった[6]国鉄分割民営化は避けられないとみて、1986年7月の国労第49回定期全国大会の委員長挨拶で「大胆な妥協」路線を提起。同年10月の国労第50回臨時大会(修善寺大会)で労使共同宣言の締結、不当労働行為申立ての取下げ等を内容とする「緊急対処方針」を提出したが、圧倒的大差で否決されたため、山崎ら執行部は総辞職し、六本木敏前組織部長を委員長とする新執行部が選出された[7]。1987年2月の日本鉄道産業労働組合総連合(鉄産総連)結成と同じ頃に大阪で記者会見し、労働界から引退した[8]

出典[編集]

  1. 367日誕生日大事典の解説 コトバンク
  2. a b c 鎌田慧『国鉄処分』柘植書房、1986年
  3. a b 『日経ビジネス』1987年3月2日号
  4. 樺山紘一ほか監修『現代人物ファイル 現代用語の基礎知識 1987年版 別冊付録』自由国民社、1987年
  5. 六本木敏鎌倉孝夫村上寛治中野洋佐藤芳夫高島喜久男『対談集 敵よりも一日ながく――総評解散と国鉄労働運動』社会評論社、1988年、104頁
  6. 秋山謙祐『語られなかった敗者の国鉄改革――「国労」元幹部が明かす分割民営化の内幕』情報センター出版局、2009年、113頁
  7. 前掲『対談集 敵よりも一日ながく』53-59頁
  8. 前掲『語られなかった敗者の国鉄改革』299頁