刈谷駅
かりや
Kariya
所属事業者 | 東海旅客鉄道 |
駅番号 | CA58 |
路線 | CA 東海道本線 |
前後駅 | 野田新町 << 刈谷 >> 逢妻 |
駅構造 | 地上駅(橋上駅) |
ホーム | 2面4線 |
開業 | 1888年9月1日 |
所在地 | 愛知県刈谷市桜町一丁目55 |
電報略号 | カリ |
かりや
KARIYA
所属事業者 | 名古屋鉄道 |
駅番号 | MU02 |
路線 | MU 三河線 |
前後駅 | 重原 << 刈谷 >> 刈谷市 |
駅構造 | 地上駅(橋上駅) |
ホーム | 1面2線 |
開業 | 1914年2月5日 |
所在地 | 愛知県刈谷市若松町一丁目78 |
刈谷駅(かりやえき)は、愛知県刈谷市にある鉄道駅。東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線と名古屋鉄道(名鉄)三河線の駅である。
概要[編集]
刈谷市の玄関口となる駅[1]である。
歴史[編集]
国鉄刈谷駅(現在のJR刈谷駅)は1888年(明治21年)に営業を開始し、三河鉄道刈谷新駅(現在の名鉄刈谷駅)は1914年(大正3年)に営業を開始した。
一般輸送開業時の1888年(明治21年)に建設された北口駅舎(国鉄側)を60年以上も使用していたが、東海道本線の電化を機に刈谷市によって駅舎の改築が行われ、1953年(昭和28年)5月5日(出札開始は3月8日)に新駅舎の竣工式が行われた。1階には改出札室・駅長室・待合ホール・売店・喫茶店・電話室などがあり、2階は駅員休憩室や宿直室などだった。1957年には刈谷駅施設拡張工事が行われ、片側のみの使用だった上りホームが60メートル延長されたうえで両側の使用ができるようになった。一方で南口駅舎(名鉄側)は1988年(昭和63年)まで古い施設が使われた。
国鉄刈谷駅(下り名古屋方面)に停車する列車の本数は、1970年が36本、1975年が38本、1980年が39本、1984年が40本と少なかった。その利便性の低さから、国鉄刈谷駅の乗車人員は1967年度(昭和42年度)の21,452人がピークであり、1979年度(昭和54年度)には15,970人にまで減少し、対名古屋方面も名鉄三河線利用(直通急行電車もあったが、知立駅乗換の利便も良かった。)が主だった。
しかし、1985年に列車本数を50本に増加させるテコ入れを行うと、乗客数18,065人と増加に転じ、1986年11月には快速列車をほぼ倍増させる改正を実施して、1987年(昭和62年)の国鉄民営化を迎えた。JR東海となってからは列車本数・乗客数ともに大幅に増えており、1988年には列車本数91本・乗客数23,604人となっている。同年には刈谷駅から1.9km西に逢妻駅が開業した。
刈谷市は1987年(昭和62年)から都市基盤整備の一環として刈谷駅周辺の整備を進めた。1989年(平成元年)1月25日には南北連絡通路の使用を開始し、JR刈谷駅と名鉄刈谷駅は橋上に設置された。通路の総工費は約10億5000万円であり、駅の総工費は2駅とも約4億円である。2016年(平成28年)には刈谷駅南口に刈谷市最高層の建築物となるAKARIYAが完成した。
駅構造[編集]
JR東海[編集]
のりば[編集]
番線 | 路線 | 方向 | 行先 |
---|---|---|---|
1・2 | CA 東海道本線 | 上り | 豊橋方面 |
3・4 | 下り | 名古屋方面 |
名古屋鉄道[編集]
のりば[編集]
番線 | 路線 | 方向 | 行先 |
---|---|---|---|
1 | MU 三河線(海線)[2][3][注釈 1]。 | 下り | 知立ゆき |
2 | 上り | 碧南ゆき |
名鉄三河線の高架化[編集]
1980年(昭和55年)には名鉄三河線の刈谷駅=刈谷市駅=小垣江駅の一部区間が高架化された。名鉄の既存路線の中では、名古屋市を除けば愛知県で初めて高架化された区間である。計画が発表されてから約10年の歳月が流れての完成だった。
刈谷市初の信号機[編集]
昭和30年代に入ると全国的に自動車が急増し、歩行者が犠牲となる交通事故も増加した。1962年(昭和37年)9月3日、愛知県道51号知立東浦線の「桜町」交差点に刈谷市初の信号機が設置され、刈谷市立小高原小学校の児童が渡り初めを行った。
競合[編集]
国鉄が列車ダイヤの頃は名鉄にも分があったが、現在は名鉄が直通運転から撤退するほど諦めムードである。
キロ数 | 運賃 | 所要時間 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
名古屋鉄道 | 28.8km | 570円 | 32分 | 知立乗換要;4本/時 |
東海旅客鉄道 | 24.4km | 420円 | 19分 | 快速;4本/時 |
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 刈谷市史編さん編集委員会『刈谷市史 第四巻 現代』刈谷市、1990年、pp. 289-290、pp.618-619