ミャンマー

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ミャンマー国旗.png

ミャンマー(英:Myanmar)とは、東南アジアにある国。ビルマと呼ばれていた事もある。正式な国名はミャンマー連邦共和国(ミャンマーれんぽうきょうわこく)。政体連邦共和制。国土面積は67万7000平方キロ(日本の約1.8倍)。人口2011年の時点で5400万人。人口密度は79.8人/㎢。首都ネピドー。国名の由来は主要民族であるビルマ人の名に由来する。ビルマとはサンスクリット語で「mran」(速いを意味する)「ma」(強いを意味する)と言われている。ビルマはミャンマーの訛りでもある。

概要[編集]

ミャンマーは東側をタイラオス中華人民共和国と国境を接しており、西側にはインドバングラデシュと国境を接している。国民の多くは仏教徒(90%)である。

この国に史上初の統一政権ができたのは1044年パガン朝によってである。パガン朝は一時期大いに繁栄したが、モンゴル帝国が勃興するとその侵攻に遭い、13世紀末までに滅ぼされた。以後、小国に分裂して抗争したが、1531年にビルマ人のタウングー朝が統一政権を樹立した。1735年、今度はアラウンパヤー朝により統一された。しかし、この頃からイギリスによる侵略が開始され、3度にわたるビルマ戦争1886年、イギリス領インドの行政下に編入された。

第2次世界大戦[編集]

第2次世界大戦が開始されるとビルマは日本軍によって征服される。この国が東部はシャン地方からタイ王国ラオス国境にかけてアヘンの世界的産地であり「黄金の三角地帯」と称されていたのが原因であった(ただしアヘン生産は1990年代半ばをピークに減少している)。また、世界的に有数の宝石産出国で、ルビーサファイアなど104種類もの宝石が発見されたからでもあった(これらは現在、軍事政権により厳しく管理下に置かれている)。そのため、日本とイギリスとの間で25万人にも及ぶ大兵力が激突し「地獄のビルマ戦線」と称されるほどの死闘が繰り広げられ、様々な悲劇を生んだ。

抗日戦争[編集]

1945年にはビルマ人による抗日戦争が起きた。日本軍はビルマから駆逐され、終戦後にビルマは連合国軍の指揮下に入った。

独立[編集]

1948年1月4日に独立を果たした。4月19日に国連に加盟している。しかし1962年からはネ・ウィンによる独裁政権が誕生し、これによりこの国はビルマ型ともいえる社会主義政権を推し進めたが、社会主義実現のために国を閉じる、いわゆる鎖国型経済という時代錯誤の政策が災いして国家経済が破綻した。1988年ソウ・マウンが軍事クーデターを起こして全権をすると、これまでの経済政策を改め、さらに国名を1989年にビルマから現地呼称のミャンマーへ改称した。ただし、欧米諸国は軍事政権の正統性を認めていないので、2021年現在でも旧称であるビルマで呼称している。

総選挙とその後の混乱[編集]

ソウ・マウンは1990年、民主化を大義名分にして複数政党制による総選挙を実施したが、これはあくまで建前であった。国民は軍政の続投と経済政策の後遺症から軍事政権を極度に嫌っており、そのためアウンサンスーチーを支持した。このアウンサンスーチーはビルマが独立する過程で独立運動家として大活躍したアウンサンの娘である。そのため、アウンサンスーチーを支持する国民によって最大野党国民民主連盟MLD)が圧勝すると、民政では少数民族の武力紛争を鎮圧することは不可能であるということを理由にして、軍事政権は民主化勢力に政権を移譲することを拒否した上、民主化運動を厳しく弾圧し、その中心をなしていたアウンサンスーチーを軟禁して強権政治を展開した。

しかし欧米諸国は軍事政権が継続されることを快く思っておらず、1991年にアウンサンスーチーに対してノーベル平和賞を授与したりするなど、側面から援護したりした。軍事政権はこれに対して国際的な非難は無視し、それに対して欧米諸国が経済制裁に踏み切るとこれも黙殺。結果的にミャンマーはますます国際的に孤立した。1992年、ソウ・マウンは辞任を表明し、後継者にタン・シュエを指名。タンは・シュエは前政権よりやや軟化した政策や配慮を見せたものの、軍事政権は継続されて民主化に向けた根本的な解決策は見えなかった。

停戦[編集]

1993年、少数民族のカチン独立機構KIO)との停戦に合意。これを機に1997年までには少数民族を中心とした反政府勢力の大半を軍事的に制圧するに至る。さらに同年、東南アジア諸国連合ASEAN)に加盟した。しかし、欧米諸国からは少数民族の制圧などは人権抑圧として批判され続けた。

2006年ヤンゴンの経済・人口の一極集中化を避けるため、中部のネピドーに首都機能を完全に移転した。

20年ぶりとなる総選挙[編集]

2010年11月、20年ぶりとなる総選挙が実施され、形式的に軍政から民政に移管されたものの、大統領には軍事政権のテイン・セインが就任。

軍事クーデター[編集]

2021年2月1日には軍事政権によるクーデターが発生した。これによりアウンサンスーチーは拘束され、国軍のミン・アウン・フライン総司令官を議長とする国家統治評議会の設立を2月2日に発表。しかし2月5日に民主派が連邦議会代表委員会(CRPH)設立を発表するなど国内は混乱し、2月22日には全土でゼネストが発生。3月27日には国軍記念日で治安部隊の弾圧により100人超が死亡し、4月9日にもバゴーで弾圧により少なくとも80人以上が死亡するなど国内は流血騒ぎに発展している。なお、アウンサン・スーチーは日本軍の慰安婦を批判している。また、ロヒンギャ問題(後述)により彼女のオクスフォード名誉市民号称は剥奪、ノーベル平和賞も取り消しを求める運動がある。

地理について[編集]

インドシナ半島の西部を占めるこの国は、北高南低の地形でエーヤワディ(旧イラワジ)とタンルイン(旧サルウィン)の2つの大河が南北に流れている。

気候[編集]

熱帯のモンスーン気候のため、高温多湿で5月から10月が雨季である。

元首都・ヤンゴンの年平均気温は27.4度で、最高気温が4月の30.9度、最低気温は1月の16.4度であり、年間降水量は2262ミリである。

寺院[編集]

国名は旧名のビルマのほうが現在でも通りはよい。国内の至るところにパゴダと呼ばれる巨大な仏塔があり、仏教の信仰が非常に厚い。

ただし戒律が非常に厳しい上座部仏教であり、男性は一生に1度得度することが慣習となっている。僧侶になった場合は戒律上妻帯できず、正午以降は食事を取らないようにするなど227に及ぶ厳しい戒律の中で修行することが義務付けられている。

人名[編集]

ビルマ人は上座部仏教に基づく宇宙観によって個人尊重の価値観が徹底しており、現在も家という概念を示すいわゆる名字、つまり姓を持たないことになっている。

つまりビルマ人は姓名ではなく名だけというシンプルさで、通常は個人名の前に「~さん」に相当する社会的敬称を付けることが慣習となっている(未婚男性なら「マウン」、既婚男性なら「ウ」、未婚女性なら「マ」、既婚女性なら「ドー」である)。

経済について[編集]

主要産業は農業で、米の生産高は世界第6位、落花生の生産高は世界第5位である。他に天然ゴムチーク材などを生産して輸出している。原油天然ガスなどの鉱物資源にも恵まれ埋蔵も確認されている。しかし、社会主義政権時代の政治的失敗などにより最貧国レベルの経済に落ち込んでおり、開発も遅れているのが現状である。

宗教[編集]

住民[編集]

  • ビルマ人が68パーセント。
  • シャン人が9パーセント。
  • カレン人が7パーセント。
  • 少数民族(ラカイン人、モン人ほか)が9パーセント。
  • その他(ムスリム(ロヒンギャ)、中国・ベトナム系、インド系、ユーラシアン(欧亜の混血)など)が7パーセント。

言語[編集]

通貨単位[編集]

国内総生産[編集]

  • 1人当たり国内総生産は702米ドル(2010年

国旗[編集]

ロヒンギャ問題[編集]

バングラデシュとの国境周辺で発生している問題なようで、ロヒンギャと呼ばれる少数民族(ベンガル人のムスリム)が民族浄化 ()ジェノサイド)に遭っている模様。国連ではロヒンギャとは呼ばずにバングラデシュ南部避難民と呼ぶ。

ミャンマーの見解:「ロヒンギャはバングラデシュからの不法移民」

仏教徒とムスリムは仲が悪いのか、民族紛争になる模様。
ムスリムが難民としてバングラデシュに逃れる。

バングラデシュの見解:「ロヒンギャはビルマの民族集団だから国に帰って」

バングラデシュは貧しくて難民を受け入れる余裕は無い模様。強制送還したいがミャンマーがそれを嫌がったりするんだとか。
難民キャンプの状態はお世辞にも良いとは言えない様子。

原因[編集]

  • 調べるとショッキングな内容が多い[1]。ロヒンギャが四半世紀以上も迫害され続けている原因は、労働力として連れてきたイギリスにあると考える人もいたりする。
  • イギリス植民地の時代、大日本帝国がイギリスと戦った際に現地の仏教徒を組織して従軍させた事に対して、イギリスは現地のイスラム教徒を組織してゲリラ戦を展開した事が原因、と見ている人もいる[1]
  • そもそもロヒンギャはミャンマーで国民として認められていないのが問題で、仏教徒が強く反対しているので政府としても下手に動けないっぽい。

主な歴史[編集]

クーデターが多いのが特徴。社会基盤が脆弱というのはそれゆえか?

脚注[編集]

関連項目[編集]