興良親王
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興良親王(おきよししんのう / おきながしんのう 、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言・北畠師重の娘(親房の妹)、あるいは大納言(東宮大夫)師兼の娘。
経歴[編集]
後醍醐天皇の孫で、護良親王の息子である。大塔若宮と言われた。母は北畠親房の妹と言われているが、親房と護良親王には15歳も年齢差があり、少し疑わしい。
建武3年/延元元年(1336年)8月、比叡山から八幡山に移る。その後、祖父の後醍醐天皇から猶子とされて、親王宣下も受けた。
暦応4年/興国2年(1341年)夏、常陸国小田城において伯父の北畠親房に迎えられて関東方面の南朝勢力の結集に務めたが、室町幕府が派遣した高師冬らの軍勢に討伐されて関城・大宝城を失って駿河国に逃亡する。その後の行方は定かではないのだが、常陸宮と見える親王が興良親王ではないかとする説、正平6年/観応2年(1351年)の観応の擾乱の際に播磨国の赤松則祐が奉じた兵部卿親王の皇子を興良親王と見る説がある。
没年に関しては、永和3年/天授3年(1377年)と見られており、護良親王の生没年を考えると、50歳近くまで存命していたことになる。