陸良親王
陸良親王(りくよし(りくなが)しんのう / みちよし(みちなが)しんのう 、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の皇子。母は権大納言北畠師重の娘(親房の妹)、あるいは大納言(東宮大夫)師兼の娘。興良親王とは兄弟(どちらも生没年不詳のため、兄弟順は不明)であるが、この2人の経歴があまりに似ていることから同一人物とする説がある。また、その経歴が赤松氏に深く関与していることから「赤松宮」(あかまつのみや)と言われることが多い。
経歴[編集]
後醍醐天皇の孫で、護良親王の息子である。母は北畠親房の妹と言われているが、親房と護良親王には15歳も年齢差があり、少し疑わしい。
祖父・後醍醐天皇の猶子となり、親王宣下を受ける。祖父の死後、後継者となった叔父・後村上天皇から征夷大将軍に任命された。観応の擾乱による正平一統により、播磨国の赤松則祐や但馬国の武士団が南朝に降伏した際、陸良親王は旗頭として擁立された。しかし、その後に足利尊氏が勢力を盛り返したため、則祐は尊氏に再度降伏し、それにより陸良親王も用済みとされたものと思われる。
則祐には実弟に赤松氏範がいたが、この氏範は則祐と不仲であったことから、父の赤松円心が死去した際に南朝に帰順して有力武将として働いていた。正平15年/延文5年(1360年)、後村上天皇は氏範に吉野18郷の兵力を与えて陸良親王の配下になることを命じた。ところが陸良親王と氏範は、その兵力をもって室町幕府の足利義詮と通じて後村上天皇に対して謀反を起こした。陸良親王の軍勢は南朝の拠点であった賀名生の行宮を焼き払うなど一時は優勢だったが、南朝の巻き返しを受けて結局は敗退。氏範は播磨国に逃れて兄の則祐の下に帰参し、陸良親王は奈良に落ち延びたという。親王のその後の行方は不明である。