初姫
初姫(はつひめ、慶長7年7月9日(1602年8月25日) - 寛永7年3月4日(1630年4月16日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。江戸幕府の第2代征夷大将軍・徳川秀忠の4女。小浜藩主・京極忠高の正室。号は興安院。母は継室の江。忠高とは又従兄妹の関係に当たる。第3代将軍・徳川家光は弟にあたる。
略歴[編集]
江戸城西の丸、または伏見城で誕生したといわれる。当時、徳川氏と豊臣氏が不仲になりつつあったので、その仲を取り持つために江が実姉の淀殿に会うため、伏見まで上洛した際に生まれたのだといわれている。ところが、生まれたばかりの初姫は、江の次姉の常高院が自らの養女としてもらったといわれる。常高院は若狭国小浜藩9万2100石余の藩主・京極高次に嫁いでいたが実子には恵まれず、側室が生んだ忠高を養子としていた。そのため、常高院は京極氏の安泰のために姪をもらい受け、徳川氏と京極氏を姻戚関係で結び付けて安泰を図るための政略結婚であったといわれている。
忠高との正確な婚姻の年は不明であるが、この9歳差の夫婦は非常に不仲だったという。京極氏に嫁いでからの初姫は「若狭の御姫様」と呼ばれていたが、夫婦仲は最悪で、それを物語るものとして細川氏の記録で、父の秀忠に先立って寛永7年(1630年)3月4日に初姫は29歳の若さで死去しているが、その臨終の際に夫の忠高は事もあろうに初姫をほったらかして相撲興行に熱中していたという。2人の間には子宝にも恵まれなかった。
初姫の病気についても様々な逸話が伝えられている。京極氏の者が長屋で初姫の悪口を言っており、それを侍女から聞いた初姫が興奮して病に倒れたというもの、そして臨終に当たって看取った女房衆に対して、夫の仕打ちを父の秀忠に伝えるように頼んだが、秀忠にそれが伝わらないように大奥の取り締まりをしていた春日局が止めたと言われている。
秀忠はこの初姫を非常に溺愛していただけに、その若死に非常にショックを覚えた。しかも初姫の葬儀は小石川の伝通院で行なわれ、京極氏の菩提寺で行なわれている。おまけに忠高に初姫の葬儀に参加することを決して許さなかった。また、細川氏の書状によると秀忠は諸大名からの香典を受け取ることを拒否したという。