北条就之
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北条 就之(ほうじょう なりゆき、元和6年(1620年) - 延宝4年7月9日(1676年8月18日))は、江戸時代前期の長州藩藩士。毛利氏の家臣。
略歴[編集]
父は毛利氏の家臣・出羽元盛で次男。仮名は長次郎、伊織助、権右衛門。寛永12年(1635年)に元服して就之と名乗っているが[1]、これは当時の長州藩主・毛利秀就からの偏諱と見られる。
天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条家が滅亡した後、一族の北条氏忠は安芸に赴いて毛利輝元の家臣になっている。氏忠には男子が無かったのか、輝元の嫡子・秀就の計らいにより毛利氏家老・出羽元盛の次男である長次郎をひめぢの婿養子に迎え、北条就之と名乗らせたというのがこれまでの通説となっていた[1]。
しかし、ひめぢは確かな生年が不明であるが、恐らく天正19年(1591年)生まれと見られており、それに対して夫の就之は元和6年(1620年)生まれと30歳も年の差がある年の差婚をしており、当時としては婚姻する年齢差とは考えにくい。このため、近年では史料の見直しが行なわれて長州藩の記録である『萩藩譜録』では就之はひめぢの養子と明記されていることから、夫婦ではなく養母・養子の関係だったと考えられている[1][2]。
就之は後北条氏の家系をそのまま継承して、延宝4年(1676年)7月9日に57歳で死去。以後、毛利氏家臣北条氏の家系として代々続いている。