北京
北京(ぺきん、ぺいちん)とは、中華人民共和国の華北地区北部にある同国の首都である。華北平原の北端部、標高55メートルに位置する。行政上は省と同格の中央直轄市である。市の面積は1万6802平方キロメートル。人口は2000年の時点、市部だけで663万4000人。略称は京。日本の東京都と姉妹都市提携を結んでいる。都市名は「北の都」を意味する。日本語では「ペキン」という呼び方が定着しているが、これは明時代~中華民国時代の発音の名残である。国際的には「ベイジン」と呼ぶ国が大半で、「ペキン」という呼び方をするのは、日本など少数である。中国では上海と並ぶ大都市。
概要[編集]
紀元前2000年頃に幽州が築かれ、春秋時代、戦国時代に戦国七雄の一である燕の首都が置かれ、当時は薊(けい)と呼ばれた。
三国志の時代には北平(ほくへい、ぺいぴん)と呼ばれて公孫瓚、袁紹、曹操に支配された。
この都市は北方に位置するために常に北方の異民族の脅威を受け、中国内地における王朝が力を失うと異民族に支配される例も少なくは無かった。そのため、三国志の終焉後の西晋のわずかな統一期間を除いて五胡十六国時代に入ると、この都市は異民族が建国した王朝の首都に定められることになる。
唐の滅亡後に五代十国時代と呼ばれる戦乱の時代に入り、936年に後晋を建国した石敬瑭の時代に入ると、石敬瑭は自らが建国するに当たり支援をしてくれた契丹族(遼)に対して燕雲十六州と称される中国北部の領土を割譲する。このため、北京の都市そのものも遼の支配下に入り、遼王朝はこの都市を副都に定めて名を燕京(えんけい、えんきょう)と名付けた。五代十国時代を終わらせた北宋はこの燕雲十六州を取り戻すために盛んに軍事行動を行なうが、文治主義に走りがちな弱体化した北宋軍では結局は果たせず、遼を滅ぼした金がこの地を支配下に置き、同国の首都に定められ、名も中都(ちゅうと)となる。しかし金が衰退するとモンゴル帝国のチンギス・ハーンの攻撃を受けて中都は包囲される。1度はチンギスと金との間で和睦が成立するが、金が和睦後に南方の開封に遷都したことを理由に1215年に再度、チンギス・ハーンの攻撃を受けて中都は陥落した。
後にモンゴル帝国を受け継いだチンギスの孫・フビライ・ハーンの時代に元の首都に定められ、フビライは大いなる都という意味から1272年に大都(だいと、ダイドゥ)と名付けた。現在の北京の直接的な前身としての機能を持つようになったのはこの時代からであるとされている。フビライは1266年に金の中都の東北に巨大帝都建設の大号令を発し、儒教の経典「周礼」に記された王都の理想系に忠実で三重の囲郭を持ち外城は周囲28キロ強に達し、1267年に着工し1293年までの26年間の長きにわたって建設が行なわれた。この長きにわたる都市建設の結果、大都はモンゴルの遊牧世界と中国の農耕世界の接点となったばかりでなく、都市内港から通恵河などの運河を介して外海ともつながり内陸・海洋のネットワークが充実し、以前の統一中国の首都と一線を画した世界帝国の中心にふさわしい都に成長を遂げた。その繁栄を示す記録として、フビライ時代の大都を訪問したマルコ・ポーロは東方見聞録において大都のことを「カン=バリク(トルコ語で「王の町」)」と呼んで賞賛している。ただし、モンゴル人は遊牧民であるため、その気風を保ってここに定住する事は無く北西部にある上都との間を季節移動し大都には冬季に滞在したという。元王朝はフビライの死後は後継者争いが絶えず衰退し、最終的に1368年、朱元璋の明によって滅ぼされた。
朱元璋(洪武帝)は首都を応天府、すなわち現在の南京に定めたため、ここに北京は一時的ながら首都としての地位を失う。朱元璋は北平を自らの第4子である燕王・朱棣に与えた。1398年の朱元璋の死後、その孫で皇位を継承した建文帝と朱元璋の第4子・朱棣が争う靖難の変により、朱棣が勝利して永楽帝として即位すると、永楽帝は北方になおも存在するモンゴル残存勢力を警戒して首都を北に遷すことを定めた。1420年に宮殿・紫禁城を新築し、1421年に南京からここに遷都してこのときに都市名が北京と定められた。当時の北京は大都の3分の2程度の規模であったが人口の増加に伴い、1553年に南方に新たに城郭が継ぎ足され特有の凸字型の輪郭となった。この時新築された城郭の範囲にはかつての金の中都の東半分が含まれている。永楽帝の没後、後継者らにより南京への還都が検討されることもあったが、明が滅ぶまで北京は首都であり続けた。
明の滅亡後、成立した清も北京を首都と定め、以後、北京は中国の首都として発展を遂げる。1911年に辛亥革命が発生して中華民国が成立すると、1912年には同国の首都と定められた。1928年、蒋介石政府による中国国民党による北伐が完了すると、蒋介石は首都を南京に遷し、また北京を北平と改称して特別市の施行を行なった。
1937年7月7日、北平西郊の盧溝橋で日本の北支駐屯軍と中国軍の武力衝突が発生し、日中戦争が勃発する引き金につながった。1945年に日本が敗戦し、1949年に人民解放軍が北平に入城すると、新たに成立した中華人民共和国の首都に定められ、同時に首都名も再び北京に戻された。1969年に地下鉄が開業し、1976年と1989年に有名な天安門事件が発生している。1994年に北京北西部の海淀区に経済技術開発区を設置し国内最大のコンピューターメーカーの本社など国内有数のハイテク産業団地に変貌を遂げていった。
850年にわたって中国の歴代王朝、政権の中心地としての地位があったことから、政治的にも文化的にも見どころは多く、各所に名所旧跡が存在する。かつての紫禁城である故宮博物院、天安門、天壇、景山公園、頤和園、北京郊外にある明の歴代皇帝の墓所である明の十三陵、万里の長城の八達嶺などである。中国六大古都の1つに数えられ、1982年には歴史文化都市に指定されている。
料理では北京料理の本場で600年の伝統を誇る北京ダックが著名である。
中国国際空港の本拠地であり、1990年の第11回アジア大会、1995年の第4回世界女性会議、2001年の第21回ユニバーシアード夏季大会など、様々な政治、文化の大会が開催されている。
なお、当市の有名な出身著名人として、清朝最後の皇帝であるラストエンペラーの溥儀、作家の老舎、映画監督の陳凱歌などがおり、日本で漫画家として知られているあの赤塚不二夫も当市の出身者である。
有名な映画の「ラストエンペラー」や「北京好日」も当地で撮影されている。
気候[編集]
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