フビライ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
フビライ・ハーンから転送)
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちがフビライの項目をおカタく解説しています。

フビライ漢字忽必烈1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝(在位:1260年 - 1294年)。の初代皇帝(在位:1271年 - 1294年)。

元王朝を創始し、南宋を滅ぼして中国全土を支配した。日本にも2度にわたって派兵したことで知られている(元寇)。東南アジアなどにも派兵して一時期は大きな勢力を築き上げるが、カイドゥの反乱に悩まされるなど晩年はモンゴル帝国の分裂が決定的となってしまった。

生涯[編集]

即位前の活躍と危機[編集]

父はトルイ。母はソルコクタニ・ベキ。モンゴル帝国の初代皇帝・チンギス・ハーンの孫に当たる。若い頃の事績は定かではない。

1251年に同母の長兄・モンケがモンゴル帝国の第4代皇帝に即位した際、フビライは兄帝より華北の大総督に任命され、本拠を開平府(現在の大興安嶺山脈南部)に構えた。モンケはフビライに南宋の征伐を命じるが、フビライは南宋を滅ぼすにはまず腹背の大理国を服従させる必要があるとして1252年から1253年にかけて大理国への遠征を行ない、さらにチベット吐蕃を服従させた。またモンケから目付として派遣されたウリャンハタイベトナム陳朝を攻めさせ、これは失敗したものの南宋に圧力をかけることには成功した。

フビライは華北の安定のためには、地元の漢人の支持が欠かせないと考えて、史天沢ら漢人軍閥の有力者を自らの側近に用いたり、自らが中国文化への理解も深かったことから漢人の知識人を多く登用して、華北の人心収攬に努めた。だがこのやり方は、南宋の攻略を急ぎたい思惑を持ち、また従来のモンゴル人の気風を尊ぶモンケの考え方に真っ向から対立するに近いものであり、モンケからそのやり方に不信と疑惑を持たれ、一時期は失脚に追い込まれることになる。しかし、フビライ抜きで開始された南宋攻略のための遠征は、南宋軍の激しい抵抗とフビライの抜けたことによる漢人軍閥の士気の低下などから一向に進まず、モンケはやむなくフビライを復帰させて南宋攻略のための一軍を任せることになる。

1259年、南宋攻略のためにモンケの本隊は突出して戦果を挙げていたが、その途上においてモンケは悪疫にかかって陣没した。モンケの軍は北に引き揚げることになり、その息子らはいずれも若かったことから後継者候補としては除外され、後継者候補には次弟のフビライと末弟のアリクブケが立てられることになった。

モンケが陣没したとき、フビライは別軍を率いて別の場所にいたが、直ちに北に帰還するために南宋軍の責任者である賈似道と講和し、南宋攻略に向けられていた軍勢の大半を回収して開平府へ帰還する。そして1260年4月にモンゴル帝国の東方の諸王の支持者を結集してクリルタイを開催し、第5代皇帝として即位した。これに続く形で1か月後の5月に弟のアリクブケもカラコルムで第5代皇帝として即位し、ここにモンゴル帝国は2人の皇帝が並び立つ異常事態のもとでモンゴル帝国継承戦争が開始された。この継承戦争は4年に及んだが、フビライには漢人の有力軍閥が味方につき、肥沃な華北を支配するなどして物量・国力で優位に立った。加えてアリクブケが捕虜処刑による人心の離反、同時期のモンゴル方面での飢饉による軍隊の壊滅など悪条件が重なる。アリクブケを支持していたチャガタイ・ハン国も支持を打ち切り、結局アリクブケは1264年にフビライに投降して、フビライは事実上1人の皇帝として君臨することになった。

治世と遠征[編集]

モンゴル帝国継承戦争が終結した頃、1265年に同母弟でイルハン朝の君主だったフレグが死去するなど、この時期にフビライを支持していたモンゴル帝国西部の君主らが相次いで死去する事態になる。すると、イルハン朝を除くオゴデイ・ハン国カイドゥチャガタイ・ハン国バラクなどはフビライの宗主権を完全に否定して中央アジアで公然と反乱を起こして自立を表明した。一時期はフビライを支持していたジョチ・ウルスモンケ・テムルまでもがカイドゥと手を結ぶなど、モンゴル帝国の西側はイルハン朝を除いて完全に敵と化してしまい、広大なモンゴル帝国はこのカイドゥの乱で完全に分裂状態となってしまう。また、唯一フビライを支持したイルハン朝も、チャガタイ・ハン国などの反対勢力のために事実上東西に分断され、連絡がほとんど取れなくなってしまった。

このような中でフビライはまず、帝国の基盤となる華北やモンゴルの支配を安定、強化させるために統治に努める。首都をカラコルムから燕京に遷し、ここを大都と改名した。朝鮮半島高麗を屈服させて皇女を与えて縁戚関係を結び、漢人軍閥に対しては李壇の反乱を契機として史天沢など信任する一部を除いて軍閥の解体を推し進めた。1268年、これらの統治を背景にして南宋征伐を本格的に再開する。この征伐は当初、襄陽における南宋軍の抵抗に悩まされていたが、1273年に襄陽が遂に陥落すると南宋軍の主力は完全に崩壊し、以後はフビライ配下の名将であるバヤンの指揮のもとで元軍の南下が進められ、1276年には南宋の首都である臨安を攻略し、1279年までに南宋の残党を張弘範らに命じて滅ぼし、中国統一を完成させた。

南宋攻略中の1271年、フビライは国号を「大」とし、元号中統、のちに至元と定めて、自ら元の初代皇帝として即位した。

1274年には日本の北条時宗が服属を拒否したことから兵を差し向けるが失敗する(文永の役)。このため、南宋滅亡後にはその水軍を再編し、水軍を強化した上で1281年に再度、日本に派兵したがこれも失敗に終わっている(弘安の役)。フビライはそれでも日本遠征を諦めず、1283年には3度目の日本遠征を計画していたが、余りに負担が大きすぎる派兵に対して多くの不満が噴出し、それが元において反乱になったことからやむなく日本に差し向ける予定だった軍勢を反乱鎮圧に向けることになり、一連の元寇は完全な失敗に終わった。

またフビライはベトナムの陳朝にも派兵したが、こちらも陳朝の皇族で名将で知られた陳興道の徹底抗戦に遭って失敗に終わった。ただし、パガン朝攻略など一部の遠征は成功もしている。

フビライの治世で続く遠征には多くの負担が身分に関係なくのしかかり、そのためモンケの遺児で自身の甥に当たるシリギ、一族のナヤンらにカイドゥと通じて反乱を起こされたりしている。ただしこれらの反乱はいずれも反乱側の対応のまずさと、フビライの迅速で適切な対処によりいずれも即座に鎮圧されている。このため、カイドゥを除いて反乱勢力のほとんどはフビライの生前はほとんど抑えられていた。

フビライは内政においてはモンゴルの気風から中華王朝への性格を強め、南宋の諸制度を踏襲し、中書省御史台枢密院の設置や官僚の編成を行なった。その一方で開平府を上都と改め夏季の都とし遊牧民の慣習に従い季節毎に大都と往来したり、モンゴル人・色目人・漢人・南人からなる身分制度を制定することで、モンゴル人の民族的気風の保全にも意を配った。経済では紙幣である交鈔を発行して通貨の統一をはかり、相次ぐ外征による財政難にはアフマド・ファナーカティーら色目人を財務長官に登用して対応した。宗教ではラマ教を保護し、高僧のパスパに命じてパスパ文字を制定させるなど、文化にも配慮している。

また、日本をはじめとした遠征の失敗はあったものの、元の勢力圏は大幅に拡大され海上交易のルートが確立し、これにより水陸両面からイルハン朝との提携ルートが確保されて世界帝国の面目が保たれた。

晩年[編集]

フビライは中華王朝への制度を定めるに伴い、皇太子制度を導入して次男のチンキム1273年に後継者に指名した。フビライが高齢になり在位が長期化すると、重臣の中からはフビライに対してチンキムへの譲位を勧める動きが出始めたが、フビライはこれを拒否している。1285年にチンキムはフビライに先立って早世し、フビライは新たな後継者としてチンキムの3男・テムルを皇太孫に指名している。

晩年のフビライは痛風に悩まされるなど、高齢となって老化も進んでいた。そして1294年に当時としては驚異的な80歳という長寿をもって崩御した。

死後、フビライが定めた皇太孫のテムルが継承するかどうかで揉めたが、フビライが信任していた重臣・バヤンの尽力によりテムルが継承している。

親戚[編集]

父母・兄弟[編集]

  • 父 トルイ
  • 母 ソルコクタニ・ベキ

后妃[編集]

第一オルド
第二オルド
第三オルド
第四オルド
その他の后妃・側室
  • 八八罕妃子
  • 速哥答里皇后[3]
  • 撒不忽妃子
  • 阿速真可敦
  • トルキジン・ハトゥン
  • ドルベジン・ハトゥン

子女[編集]

クビライの子女については、『集史』クビライ・カアン紀の后妃・嗣子表と『元史』の宗室世系表のそれぞれに記載されているが、『集史』では男子は12人、『元史』では10人としており、また両者で男子の順序にも異同が見られる。そのため、人数の多い『集史』での記載順を載せ、『元史』宗室世系表の記述を併せて載せることにする。

男子[編集]

「十子:長 朶而只王;次二 皇太子真金、即裕宗也;次三 安西王忙哥剌;次四 北安王那木罕、無後;次五 雲南王忽哥赤;次六 愛牙赤大王;次七 西平王奥魯赤;次八 寧王闊闊出;次九 鎮南王脱歓;次十 忽都魯帖木児王」(『元史』巻107 宗室世系表)

女子[編集]

登場作品について[編集]

映画
テレビドラマ
テレビアニメ

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。当主アルチ・ノヤンの娘で、姉妹にはジョチの正妃でバトゥの生母オキ・フジンらがいる。
  2. コンギラト部族首長家アルチ・ノヤン家の子女。1281年、チャブイが逝去した後、クビライの希望によりチャブイの後任として皇后に迎えられ右大オルドを引き継いだ。『集史』コンギラト部族志によればアルチ・ノヤンの息子ナチンの娘としているが、『元史』巻百十四 后妃列伝 南必皇后条によると、ナチンの孫である仙童(オラチンの息子)の娘としている。
  3. 泰定帝イェスン・テムルの妃となっていたが、泰定三年(1326年)にクビライのオルドを守るよう詔を受けた。
  4. 『集史』での表記は تورجى Tūrjī ないし دورجى Dūrjī。クビライの長子で、チャブイ皇后との間に儲けた四人の息子たちの長男。『集史』によると、イルハン朝アバカの治世(1265年 - 1282年)まで存命だったらしい。
  5. 『集史』での表記は قوريداى Qūrīdāy。生母はメルキト部族の首長トクトア・ベキの兄弟クトゥの娘だったトゥルキジン・ハトゥン。
  6. 『集史』での表記は هوكاچى Hūkāchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男アウルクチの同母兄。
  7. 『集史』での表記は اوغروقچى Ūghrūqchī。生母はドルベン部族出身のドルベジン・ハトゥン。七男フゲチの同母弟。
  8. 『集史』での表記は اَباچى Ābāchī または اَياچى Āyāchī。生母はチンギス・カンに仕えたフーシン部族出身の功臣ボロクルの娘、フウシジン・ハトゥン。同母弟に九男ココチュがいる。高麗国王忠烈王に降嫁したクトゥルク=ケルミシュもクビライと彼らの生母フウシジンとの娘ではないかと推測されている。
  9. 『集史』での表記は كوكچو Kūkuchū。生母はフウシジン・ハトゥン。八男アバチ(アヤチ)は同母兄。1271年、異母兄ノムガンが中央アジアのカイドゥの鎮圧のため幕僚の右丞相アントンとモンケ家、アリクブケ家などの諸王族とともに派遣されアルマリクに駐営した際に、ノムガンに随行した。しかし、1276年にモンケ家のシリギを中核とする他のトルイ家の王族たちが反乱を起こし(いわゆる「シリギの乱」)、ココチュは捕縛され西方の有力王族たちの協力を欲したシリギらにより人質としてカイドゥのもとに連行された。しかし、カイドゥやジョチ・ウルスはシリギ一統の要請を拒絶し、クビライが南宋戦線からバヤンを派遣して乱を鎮圧すると、ココチュもクビライのもとへ送還された。
  10. 『集史』での表記は قوتلوقتيمور Qūtlūq-Tīmūr。生母不詳。アリクブケとの皇位継承戦争中に誕生し、20歳で亡くなったという。
  11. 『集史』での表記は توقان Tūqān。生母はバヤウト部族出身のバヤウチン・ハトゥン。1285年チャンパ王国遠征のために南方へ派遣される。しかし、途中通過したベトナムの大越陳朝で兵糧などを過剰に徴発したため陳朝の反乱を招き、暑熱と激しい抵抗に苦しんだ。最終的に陳朝の再度の服属は得たが、諸将の戦死など派遣軍の激しい損耗を招いたことをクビライに咎められ、蟄居を命じられたと伝えられる。
  12. 生母は第二オルドのナンブイ皇后。
  13. 斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフーシン部族のボロクルムカリ国王をはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿 (Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)