公孫瓚
公孫 瓚(こうそん さん、 ? - 199年)は、中国後漢末期の武将・政治家・群雄。字は伯珪(はくけい)。従弟は公孫範・公孫越。子は公孫続ら。後漢末期の騒乱の中で幽州において割拠する。白馬将軍(はくばしょうぐん)の異名をとり北方異民族との戦いで勇名を馳せた。一時期は華北において袁紹をも凌ぐ大勢力を形成したが、皇族で人望の厚かった劉虞を滅ぼすなど支離滅裂な所業の数々で袁紹に追い詰められてゆき、最終的に袁紹に敗れて自殺した。
生涯[編集]
若い頃[編集]
幽州遼西郡令支県(現在の河北省遷安市)の出身。郡の門下書佐(文書係)を務めたが、容姿が凛々しく声も朗々としていたので、上司の太守(知事)・劉基は公孫瓚を優れた人物と見込んで娘を嫁がせ[1]、涿郡の盧植の下で学問を修める事を許された[2]。その後、公孫瓚は郡に戻って役所仕事を再開する。劉基が法を犯して廷尉(検察の長官)の下に連行された際、公孫瓚は車の御者となって同行し、身辺の世話をした。その劉基が中国南部の日南郡に流罪にされると、公孫瓚は祖先の霊に別れを告げるために米と肉を用意して北芒山に登り、酒を捧げて「私は貴方がたの子孫ですが、今は人に仕える身ゆえ、遠く日南に行かなければなりません。かの地には疫病が流行っているとか。2度と帰りえぬやもしれず、ここでお別れを申し上げます」と悲痛な言葉をもらして再拝し立ち上がり、それを見て周囲にはすすり泣かぬ者はなかったという。
劉基は護送の途中で赦免されたため、公孫瓚は故郷に帰る事になる。やがて公孫瓚は孝廉に推挙されて郎(官僚の見習い)となり、遼東郡属国の長史に任命された。
勇名を馳せる[編集]
公孫瓚は異民族との戦闘ではいつも白馬に乗って戦い、敵を追って矢を放てば百発百中で、疾走する敵を生け捕りにすることも多かった。このため異民族の間では「白馬を避けよ」と注意しあい、彼らが白馬を恐れていると知った公孫瓚は白馬ばかり数千頭を揃えて騎射のうまい兵を配して精鋭部隊を組織し「白馬義従」(はくばぎじゅう、義によって従う者の意)と名付けた。異民族らは公孫瓚を「白馬長史」と呼んで恐れた。
ある時、公孫瓚は数十騎を率いて辺境の砦を視察した。途中で数百騎の鮮卑族を発見し、咄嗟に人気の無い望楼に隠れて部下を集めて「ここで突破しなければ皆殺しにされるぞ」と叱咤すると、自ら矛の根元に剣を結び付けて真っ先に敵中に突っ込み、前に後ろに敵を突きまくって何十人も殺傷した。公孫瓚は半数の部下を失ったが何とか脱出し、鮮卑族はこれに懲りて2度と辺境を侵そうとはしなかったという。
その後、涿県の県令に栄転し、光和年間に涼州で暴動が起こった際には霊帝より公孫瓚に作戦遂行の大権と指揮権が与えられ、公孫瓚は幽州の奇襲騎兵部隊3000騎を率いて出陣した。
漁陽郡の張純が遼西郡の鳥丸族の丘力居を引き込んで反乱を起こすと、薊中にいた公孫瓚は部下を率いて張純らを追討し、戦功を挙げて騎都尉(近衛騎兵隊長)に昇進した。
鳥丸族の貧至王が部族民を率いて公孫瓚に帰順してきたので、公孫瓚は中郎将(准将軍)に昇進して都亭侯に封じられ、さらに公孫瓚は遼東属国に進駐して異民族と5、6年間にわたって攻防を繰り返した。しかし丘力居が青州や徐州・幽州・冀州などで略奪を繰り返して大きな被害を与えていたのに、公孫瓚はそれを阻止することができなかった。
劉虞・袁紹との確執[編集]
皇族で高潔で名高い劉虞が幽州牧として赴任すると、劉虞は異民族に対して使者を送り、丘力居は劉虞が幽州牧に就任したと知って喜び、帰順の意を示した。しかし武闘派である公孫瓚にとって政治的解決は心穏やかではなく、密かに異民族らの使者を途中で待ち伏せて殺害しようと計画した。この計画は異民族側に察知されており、間道を通り抜けて劉虞の下にやって来て帰順の意を示した。劉虞は公孫瓚の計画を知ると驚いて霊帝に上奏し、各方面の駐屯部隊を引き揚げて公孫瓚のいる歩騎兵合わせて1万だけを右北平郡に孤立させた[3]。
189年に董卓が洛陽に入城して政権を掌握すると、公孫瓚は奮武将軍に昇進して薊侯に封じられた。反董卓連合軍が起こって長安に遷都されると、董卓に傀儡とされていた献帝は洛陽に帰還したいと願って劉虞の息子で自分の側近を務めていた劉和を劉虞の下に送り、幽州の軍勢を率いて自分を迎えに来るように命じた。袁術は劉和からその話を聞くと劉虞の兵力を利用するために劉和を抑留し、劉和に自分の兵も合わせた上で長安に向かう事を約束して劉虞に対して手紙を書かせ、それを読んだ劉虞は数千の騎兵を劉和の下に送った。公孫瓚は袁術の野心を見抜き、兵力を袁術に与えてはまずいと思って強く引き留めたが劉虞は聞き入れず、また公孫瓚は自分が反対した事を袁術に知られては憎まれるのではないかと恐れて、従弟の公孫越に1000騎を率いさせて袁術の下に援軍として送り袁術と手を結ぼうとしたが、その一方で劉和を人質にして劉虞の兵力を奪うようにも唆し、この策略は公孫瓚の思惑通りとなって公孫瓚と劉虞の関係は相当悪化した。
袁術は陽城に孫堅を配して董卓軍に備えていたが、袁紹がその陽城を攻略しようと周昂を差し向けたので、袁術は公孫越と孫堅に迎撃させたが敗北し、公孫越は流れ矢に当たって敗死した。従弟の死を知った公孫瓚は「我が弟が死んだのは袁紹のせいだ」と激怒して自ら出兵して磐河[4]まで進出する。この際に公孫瓚は袁紹の罪状を告発した上奏文を献帝に提出し、その中に10を数える大罪を挙げている。それによると袁紹の母親が賤しい身分の出自である事を指摘しそれなのに爵位を継いで名門の名誉を傷つけている事までを罪として挙げている。恐れをなした袁紹は自分が持っていた渤海郡太守の印綬を公孫瓚の従弟にあたる公孫範に与えて懐柔する事で関係修復を願ったが、公孫範は渤海郡の兵を率いて公孫瓚に味方した。公孫瓚は青州や徐州の黄巾賊を討伐して界橋[5]まで進軍した。
公孫瓚は家臣の厳綱を冀州刺史に、田楷を青州刺史に、単経を兗州刺史に任命して送り込んだ。袁紹は広川に軍勢を配置して麹義を先鋒にして公孫瓚と戦い、緒戦で公孫瓚は厳綱を生け捕られて敗北した。敗れた公孫瓚は渤海に逃げ込んで太守の公孫範と共に薊に帰還し、公孫瓚は守備を固めるために城壁の外の東南の地に別の小規模の城を造営したが、これが州牧の劉虞と目と鼻の先であったため、両者の敵意はさらに募っていった。
劉虞は公孫瓚の不意討ちを警戒し、先手を打って公孫瓚を襲撃するが、公孫瓚はこれを破って劉虞が敗走した居庸まで追撃して攻め落とし、劉虞を捕らえて薊に帰還した。当時は董卓が王允・呂布らに暗殺された時期で、献帝は段訓を使者にして劉虞の所領を増やして6州を治めさせようとしていた。公孫瓚はこの際に前将軍に昇進し、易侯に封じられた。公孫瓚は劉虞が皇帝を僭称しようとしていると誣告し、段訓を脅迫して劉虞を斬り殺し[6]、そして献帝に上奏して段訓を幽州の刺史に任命させた。
慢心と敗戦[編集]
こうして劉虞に勝利した公孫瓚であったが、それを言い事に内政や軍事に慢心が見え出した。『英雄記』によると、公孫瓚は政軍に絶対的な権力を振るい、役人の子弟で優秀な人物がいるとその人物を圧迫して窮地に陥れ、周囲の人物がなぜこんな事をするのか公孫瓚に尋ねると「私が役人の子弟や優秀な人材を取り立てて富貴にしてやっても、彼らは自分がその地位に就くのは当然だと考えて私の厚意に感謝しないだろう」と述べたという。さらに公孫瓚は功績ある者を無視して過失ばかりを咎めて、多くの者を処刑した。
だが、人望の厚かった劉虞を殺害した事はその旧臣である鮮于輔・斉周・鮮于銀らの恨みを招き、彼らは閻柔を推戴して鳥丸・鮮卑を味方に引き入れ、数万の軍勢を擁して報復を開始。公孫瓚が任命していた漁陽郡太守の鄒丹に大勝して斬り殺した。袁紹も劉虞の遺児・劉和に家臣の麴義と兵力を与えて鮮于輔に協力させ、公孫瓚軍を盛んに攻撃させた。劉虞遺臣軍と袁紹軍の連合の前に公孫瓚軍は各地で連戦連敗し、追い詰められた公孫瓚は易京に逃走して城の守備を固めて守りに入った[7]。
籠城と最期[編集]
公孫瓚は易京の周囲に十重の塹壕を掘りめぐらし、それぞれその内側に土堤を築いたが、高さはいずれも五、六丈はあり、さらにその上に櫓を建てた。一番内側にある塹壕には特に高さが十丈もある土堤を築き、公孫瓚はここに居を構えて300万石の穀物を備蓄した。袁紹は軍を易京に差し向けて何年も攻め続けたが、落とす事はできなかった。そこで袁紹は公孫瓚に次のような手紙を送ったと『漢晋春秋』に記録されている。それによると「私(袁紹)と貴方(公孫瓚)はかつて盟約を結び、董卓討伐の誓約を交わした事もあり、伯夷と叔斉以上の信頼によって結ばれた仲。それぞれの担うべき役割もはっきり決まっていた。それゆえ私達が力を合わせて共に歩めば、古の斉や晋の名君たちの後に続くことができると考えていた。だからこそ、私は持っていた印綬を手放し、貴殿の北方の地に私の南方の地を加えるべく肥沃な土地を分割して貴殿に捧げたのである。これこそ、私の至誠を証すものでなくてなんであろう。まさか貴殿が烈士たる者の徳義を棄て去って滅亡への道を歩み、心変わりして友情を怨恨に変え、奪い取った渤海郡の兵馬を豫州に差し向けて荒らしまわろうとは夢にも思っていなかった。三軍を統率する将たる者は、怒る時は秋霜の如く厳しく、喜ぶ時は慈雨の如く優しく、是非好悪の基準が明確でなければならぬ。しかるに貴殿は身の処し方に一貫性が無く、相手の強弱によって態度を変え、追い詰められれば卑屈になり、緩めればのさばってその行動には原則が無く、自分の言葉にも責任を持たぬ。勇者たる者がこんなことでいいのか。貴殿が年寄りや子供まで虐殺したため、幽州の地は怒りに満ち、民はおろか身内の人々まで離反して今や貴殿は孤立無援となった。また、鳥丸らは貴殿と同郷、私とは習俗を異にする国の人々であるのに、それぞれ激怒して起ち、競って我が軍の先鋒隊として戦っている。さらに東西の鮮卑族も続々と我が軍に帰順している。これらは私の人徳が招き寄せたのでは無く、貴殿が追い立ててそう仕向けているのである。今、旧都(洛陽)は復興し、天網はつくろわれ、罪人(董卓)は亡び、忠臣が補佐して中華の国は権威を取り戻した。平和の世を歌う歌が待ち望まれ、武器をしまい、牛馬を放とうとしている。それなのに、何故貴殿だけはちっぽけな領土にしがみつき、軍備を維持し、悪名に甘んじて滅亡を急ぎ、後の世に残すべき徳を失おうとなさるのか。ただ意気に任せて事を図るのは良策とは言えない。どうか怨みや疑いを解いて旧交を復活してほしい。もし、私の言葉が間違っていたら天が罰するだろう」とあった。これに対して公孫瓚は返事を出さずにさらに防備を強化した。
公孫瓚は「昔は戦えばたちまち天下を平定できると思っていたが、今になってみると私の思い通りにはいかないようだ。しばらく兵を進めて農事に力を入れ、穀物を蓄えるにこしたことはない。兵法にも「百の櫓を持つ城は攻めず」とあるが、この城の守りはそれどころではない。これだけの穀物を食い尽くす頃には、天下の形勢も定まっていようというものだ」と自慢していたという。
『英雄記』では易京城では公孫瓚配下の武将らもそれぞれ高楼を築き、その数は1000に上り、公孫瓚は鉄の門を造り、楼閣の上に住んだが、側室や下女を側に侍らせるだけで側近さえ近づかせず、文書は吊り篭で吊り上げさせたという。また『漢晋春秋』では公孫瓚は部下の関靖に対して「今や四方で激しい戦いが繰り広げられている。我が城下に腰を落ち着けて長期戦を戦える者などいるはずがない。袁紹など、この私をどうすることもできまい」と言ったという。このように籠城で追い詰められていながらも相変わらず公孫瓚は傲慢だった。
199年、袁紹は全軍を挙げて易京城を包囲。これに対して公孫瓚は息子の公孫続を使者として黒山賊の張燕に援軍を要請し[8]、自ら突撃騎兵を率いて袁紹軍の包囲を突破し、西南の山沿いに進んで張燕と合流して冀州を制圧して袁紹の背後を断とうという作戦を考えた。しかし配下の関靖が「今や我が軍の将兵はがたがたになっています。それでも何とか持ちこたえているのは将兵が自分の家や家族を案ずる一心からで、さればこそ将軍を主君と仰いでいるのです。このままじっと動かずに守りを固めていれば、袁紹は必ず引き揚げるでしょう。そうなれば再び態勢を立て直す事もできます。今将軍がここを見捨てて出撃なされば、軍は重石を失い、易京はたちまち危機に瀕する事になりましょう。本拠を失い、一人荒野に残されては、将軍とて何ができましょう」と述べてこの作戦に反対したため、公孫瓚は出撃を中止した。
公孫瓚は新たな作戦として、張燕の援軍が到着したら城の内外から呼応して袁紹軍を挟撃しようとした。そして密かに張燕の下にいる公孫続の下に挟撃の期日を定めて援軍が到着次第狼煙を上げて知らせるように命じた手紙を出した。しかしこの手紙が袁紹軍の斥候の手に落ち、袁紹はこの手紙にある狼煙を悪用して公孫瓚軍を城から誘き出した。公孫瓚は袁紹の誘き出しに引っかかって待ち伏せていた袁紹軍に散々に打ち破られ、公孫瓚は城に逃げ帰って再び守りを固めた。
袁紹は易京城に向かって地下道を掘り進めて行き、櫓の真下に達すると上へ向けて掘り櫓を突き崩した。こうして袁紹軍は公孫瓚の籠城する易京の中心部に迫っていった。『英雄記』によると袁紹軍は櫓の支柱に放火し、櫓を次々と倒していったという。
こうして袁紹に追い詰められた公孫瓚は遂に敗北を悟り、妻子を殺して自殺した。『漢晋春秋』によると袁紹は公孫瓚・関靖らの首級を悉く許昌に送り届けたという。
三国志演義において[編集]
『三国志演義』においては劉備と若年期に縁があったため、比較的好意をもって描かれている。袁紹との戦いにおいても演義では袁紹に冀州分割において騙されて公孫越を殺されたために変更されている。袁紹の作戦で軍は四散し、文醜に追い詰められるが趙雲に助けられる。また劉備・関羽・張飛ら3兄弟の活躍もあり、袁紹軍相手に優位に戦いを展開し、董卓の仲介で和睦した。その後、袁紹との戦いで追い詰められていくのは史実どおりである。
脚注[編集]
- ↑ 『典略』によると公孫瓚は能弁で頭の回転が速く、業務報告をする際も些末に陥ることなく大綱をつかんで説明し、しかも万事遺漏が無かったので劉基からその才能を高く評価されたという。
- ↑ この際に同じく盧植の門下生であった劉備がおり、年上の公孫瓚を兄として親しみ、後に互いの縁となる。
- ↑ 劉虞の異民族に対する懐柔策に対して公孫瓚は「蛮族は侮りがたく、服従しないことを理由に徹底的に討伐すべきであり、贈り物などして手なずけようとすれば増長してますます我らを侮るに違いない。一時の名声を得ようとして百年の大計を誤る事になる」と強硬論を述べ、劉虞が聞き入れずに異民族らに贈り物をしようとするとそれを途中で奪い取った。劉虞は公孫瓚に何度も会見を申し込んだが、公孫瓚はそのたびに病気と称して会おうとしなかった(孫盛・『魏氏春秋』)。
- ↑ 槃河とも言う。
- ↑ 界城橋とも呼ばれ、この界橋の戦いで有名になり「袁公橋」とも呼ばれた。
- ↑ 公孫瓚は捕虜にしていた劉虞を市場に引き出して晒し者にした上、かつて袁紹が劉虞を皇帝に推戴しようとした経緯から「もしそなたが本当に天子になるべき人物なら、天が雨を降らせて助けてくれるだろう」と毒づいた。夏の真っ盛りで一日中雨は降らなかったので、公孫瓚は劉虞を処刑した(『典略』)。
- ↑ 公孫瓚が易京に逃走した際、「燕の国の南の果て、趙の国の北の果て、真中がぽっかり開いて、大きな砥石のようなとこがある。ここだけこの世の隠れ場所」というわらべ歌が流行り、公孫瓚は易京がこの場所だと考えて築城を加えて守りを固めたという(『英雄記』)。
- ↑ 『献帝春秋』によると公孫瓚は薊城が崩壊する夢を見て敗北を知り、公孫続に手紙を送ろうとした。その際に手紙には「袁紹の攻撃はまさに神業というべきで、太鼓や角笛の音が地の底から聞こえたかと思うと、雲梯や衝車が我が櫓の上に現れる。我が方は日一日と窮地に陥り、もはや頼るあてもない。そなたは黒山軍の首領・張燕殿に三拝九拝して直ちに軽騎兵を出してもらい、援軍がこちらへ着いたら北の方角で狼煙を上げよ。それを合図に、わしは城内から撃って出よう。そうしなければ、わしが滅びた後、天下広しと言えども、そなたに安住の地はないのだ」とあったと『典略』に記録されている。