石敬瑭
石 敬瑭(せき けいとう、892年 - 942年6月13日(942年7月28日))は、五代十国の後晋の初代皇帝(在位:936年 - 942年[1])。後晋の建国者のため、高祖(こうそ)と呼ばれる[1]。叔父に石万友、石万詮。兄弟に石敬儒、石敬威、石敬徳、石敬殷、石贇、石敬暉、石重胤。
生涯[編集]
太原出身の西方異民族と言われる[1]。後唐の第2代皇帝・明宗に仕えてその即位に功があり、禁軍の統率を任され各地の節度使を歴任し、明宗から娘婿に選ばれた[1]。明宗の死後、後唐で政変が起こり養子の末帝が即位すると石敬瑭は末帝から警戒されるようになり、末帝から晋陽から移動するように命じられると配下の劉知遠の勧めもあって遂に反乱を起こした[1]。しかし後唐軍に晋陽を包囲されて兵糧攻めで追い詰められると、契丹(遼)の太宗に支援を求め、石敬瑭は太宗が出した臣従・歳貢・燕雲十六州(現在の北京や大同など)の割譲を全て受諾したという[1]。このため太宗の遼軍が南下して後唐軍は壊滅し、さらに石敬瑭は遼軍と連合して洛陽を落とし[1][2]、936年閏11月に末帝を自殺に追い込んだ[3]。
こうして石敬瑭は新たに皇帝として即位し、晋(歴史的に後晋)を建国して元号を天福と定めて開封を首都にした[2]。しかしこの即位は遼の支援を受けて得たところが大であったため、約束に従い燕雲十六州は割譲し、毎年絹織物を30万匹献上し[2]、遼の太宗と皇太后に対して尊号を送ったりするなど[4]、後晋にとっては大きな負担を強いられることになる。このため高祖の権力は非常に限定的で、節度使の盧文進や范延光らに反乱を起こされている[2]。一方で高祖は道徳経を好み、道士の張薦明を召還して自ら後に通元先生の号を得たという[2]。この際、道徳二経を刻印版させた[2]。国政に関しては義父の明宗時代に続いて宰相に馮道を任命して重用し、後唐時代の高官の大半を留任させた[4]。高祖は義父の時代に枢密院・枢密使の専横を危険視していたため、939年4月に枢密院を廃止している[5]。
942年5月に高祖は重病に倒れ、実子の石重睿を後継者に指名するがまだ幼少だったため、馮道の懐に石重睿を抱かせて後事を託し、1か月後の6月13日に崩御した[5][6]。享年51[2]。しかし馮道は国家が多事多難のため幼帝では心許ないとして高祖との約束を反故にし、跡を甥の出帝が継がせた[2][6]。
高祖の時代に行なわれた燕雲十六州の割譲は、北宋期まで続く大きな国際問題になった[2]。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 李皇后(永寧公主)