鳥居氏

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鳥居氏(とりいし)とは、日本氏族である。安土桃山時代徳川氏の家臣となり、江戸時代には譜代大名として最終的に下野国壬生藩主となった。家紋は鳥居笹。徳川家康に仕えた鳥居元忠で著名である。

概要[編集]

平氏の支流の一族とされ、松平清康の時代に鳥居忠吉が仕えたことから経歴が明らかになっている。忠吉は徳川家康今川義元人質だった頃からの家臣で、家康が三河国に不在だった間の松平氏徳川氏)を支える総奉行として重きを成した。

忠吉の嫡子・鳥居元忠は家康の重臣として各地を転戦して武功を挙げ、天正18年(1590年)に家康が関東の主となった際、下総国矢作藩4万石を与えられて大名となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、元忠は家康の命令で伏見城の守備につき、伏見城の戦いにおいて石田三成西軍に攻められて戦死した。この戦死が祖先の勲功として、以後の鳥居家を支えることになる。元忠の嫡男・鳥居忠政は家督相続を許された上、父の武功を賞されて陸奥国磐城平藩に加増移封。さらに出羽国山形藩に22万石で加増移封されるなど鳥居忠政は重く用いられた。石高も24万石に増やされている。

しかし、忠政の死後にその息子の鳥居忠恒継嗣が無く死去したことから、鳥居家は無嗣断絶改易となりかける。しかし元忠の勲功により、その弟の鳥居忠春に3万石を与えて信濃国高遠藩に移し存続を許した。その後も鳥居家では不祥事が相次ぎ、本来なら改易されるところを常に祖先の勲功が大きいとして石高を減らされたり移封はあったものの、存続自体は許されている。鳥居家は高遠藩から能登国下村藩近江国水口藩などを経て、最終的に下野国壬生藩主となって落ち着き、以後はそこを明治時代まで支配した。

譜代大名の名門で祖先の勲功もあるため、鳥居家の藩主は幕閣入りして老中若年寄を務めている。家格も3万石であるにも関わらず城主格であり、江戸城内の詰間は帝鑑間であった。明治時代には子爵に列している。

分家には鳥居元忠の3男で忠政の弟に当たる鳥居成次甲斐国谷村藩を興しているが、成次の嫡子・鳥居忠房の時に駿府藩主で徳川家光の弟・徳川忠長切腹改易に巻き込まれて取り潰されている。

鳥居氏が治めた藩の変遷[編集]

支族

  • 1600年 - 1632年 - 甲斐谷村藩(1万8000石のち3万5000石。改易)

系図[編集]