鳥居忠恒
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鳥居 忠恒(とりい ただつね、慶長9年(1604年) - 寛永13年7月7日(1636年8月7日))は、江戸時代前期の大名。出羽国山形藩24万石鳥居家の第2代藩主。官位は従四位下・伊賀守、左京亮。壬生藩鳥居家2代。
生涯[編集]
初代藩主・鳥居忠政の長男。母は車氏。仮名は新太郎。弟や姉妹に戸沢定盛、忠春、井伊直勝正室、桂岳院、酒井忠勝正室、宗姫、真田信重正室、大河内忠雄室らがいる。正室は美作国津山藩主・森忠政の娘。
寛永5年(1628年)9月、父の死により家督を継いで山形藩鳥居家の第2代藩主となる。しかし生来から病弱で幕府の公役を務めることができず、寛永13年(1636年)7月7日に33歳の若さで死去した。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺。
忠恒には継嗣が無かったため、山形藩鳥居家は無嗣断絶で改易となった。忠恒は生前、新庄藩の戸沢氏に養子として出していた実弟の戸沢定盛を鳥居家に復籍させようとしたがかなわず、次いで忠春を養子にしようとしたが、これも忠恒と忠春の生母が不仲だったことからかなわず、結局忠恒は継嗣無くして死去し、これが後継を考えずに幕府をないがしろにした罪と見なされて山形藩鳥居家は改易に処されたのである。
しかし、徳川家光は忠恒の祖父・鳥居元忠が幕府創設の功臣であることを考慮してその家名を存続させるため、忠恒の異母弟にあたる忠春に信濃国高遠藩で3万石を与えて家督を継承させた。