矢作藩
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矢作藩(やはぎはん)は、江戸時代前期のわずかな期間だけ下総国に存在した藩である。藩庁は矢作城。現在の千葉県香取市(旧佐原市)に存在した。
概要[編集]
中世において矢作城主は千葉氏の一門である国分氏が務めていた。国分氏は天正18年(1590年)の小田原征伐により千葉氏と共に滅んだ。
その後、関東に入った徳川家康は、古くから仕える功臣の鳥居元忠に4万石で矢作城を与えた。これが矢作城の立藩である。矢作は常陸国に近く、佐竹義宣を警戒して勇将の元忠を配置したものと言われている。元忠は慶長4年(1599年)4月から6月にかけて領内の総検地を実施した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、元忠は会津征伐に赴く家康の命令で山城国伏見城の守備を担当することになった。これは石田三成ら反家康勢力を挙兵させるための罠だったとされており、その罠に乗った三成は西軍を率いて伏見城に攻め寄せる。元忠はわずか1800名の兵士で徹底抗戦を行って玉砕し、伏見城は陥落した。戦後、元忠の家督は嫡男の忠政に継承され、元忠の功績を評価した家康によって6万石を加増されて10万石で陸奥国磐城平藩に加増移封された。こうして矢作藩は廃藩となった。
元和4年(1618年)、三浦正次が矢作に780石の旗本として入封するが、正次は次第に出世して加増を受けて石高も5000石にまで昇進する。寛永7年(1630年)に正次は5000石の加増を受けて1万石の大名となり、矢作藩が再立藩された。寛永16年(1639年)、正次は下野壬生藩に移封となったため、矢作藩は再び廃藩となった。
歴代藩主[編集]
鳥居家[編集]
譜代。4万石。
三浦家[編集]
譜代。1万石。
- 正次(まさつぐ)