糜芳
ナビゲーションに移動
検索に移動
糜 芳(び ほう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は子方(しほう)[1]。兄は糜竺。妹は糜夫人(劉備夫人)。陶謙・蜀の劉備、呉の孫権に仕えた。
生涯[編集]
徐州東海郡朐県[1](現在の江蘇省連雲港市)の出身。最初は徐州牧の陶謙に兄と共に仕え、その没後は跡を継いだ劉備に仕えた[1]。曹操から兄と共に官職をもらった時期があったがそれを捨てて劉備に従う[1]。劉備の入蜀が果たされると荊州南郡の太守となるが、劉備から荊州を任された関羽とは大変不仲であった[1]。関羽からは「(曹仁討伐が終了して)帰還したら処罰する」とまで言われており、そのため同じように不仲だった士仁と共に孫権配下の呂蒙に通じて降伏し開城し、結果的に関羽を敗死に追い込む一因をなした[1]。
評価[編集]
糜芳は劉備に30年近く仕えて来た古参だったため、それを裏切ったことは結果的に彼の否定的な評価を招いている。呉の虞翻は裏切り者として激しく罵ったというし[1]、兄の糜竺は裏切りを知ると劉備に連座刑を求め、それを拒否されると恥と怒りのため1年余りで死去している[2]。後世には関帝廟において首枷をはめられ、手足を鎖で繫がれた像が設置されて嘲りや侮蔑の対象となった[1]。
『三国志演義』でも裏切り者のため兄と較べて悪い人物として劉備在世中から描かれる。長坂の戦いで趙雲が当時阿斗と名乗っていた劉禅を救うために曹操軍の中に駆け入った事を劉備に裏切ったと報告している。ただ劉備を裏切る際にはやはりわずかながら後ろめたさもあったように描かれている。222年の夷陵の戦いで味方に寝首をかかれる事を恐れて士仁と共に馬忠の首を手土産にして劉備に帰参を願い出るが許されずに殺された。