于禁

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于 禁(う きん、? - 221年)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将文則(ぶんそく)[1][2]。子は于圭魏の五将軍の1人である。

生涯[編集]

鮑信の時代[編集]

兗州泰山郡鉅平県(現在の山東省泰安市)の出身[1][2]184年黄巾の乱が起こった際に鮑信の召集を受けてその部下になる[2]。以後、192年に鮑信が青州の黄巾賊の残党と戦って戦死するまでその部下としての地位にあり、鮑信の死後に兗州牧となっていた曹操の部下になった[2]

曹操の時代[編集]

曹操は于禁の才能を評価し、軍司馬に任命した[1][2]。于禁は各地を転戦して武功を立てた[2]197年張繍との戦いで曹操が大敗し、味方の青州兵が略奪を働いたために処罰したが逃亡した兵が曹操の下に赴いて「于禁謀反」の讒言を曹操に行なった[2]。しかし于禁は少しも慌てず、張繍の追撃に備えて陣営を整えてから曹操に謁見して実情を説明したので、曹操からさらに信任を受けるようになる[2]袁紹との対立が深まった際には先陣を任され、徐州劉備を攻める際に主力が中央を留守にした際には袁紹軍に備えて延津の守備を任された[2]。袁紹軍との戦いでは陣営を攻撃して30ヶ所余りの陣地を焼き払い、さらに斬首した敵兵と捕虜は数千に及んだという[2]200年官渡の戦いでは曹操が築いた土山に袁紹軍が雨のごとく矢を射かけ、曹操軍は死傷者が多く出て混乱したが、于禁は陣を死守して奮戦して味方の士気を鼓舞したので士気は上がり、袁紹軍を破る一角を成したという[2]

袁紹が死去して冀州が平定された際、昌豨が反乱を起こしたので曹操の命令で討伐する[2]。于禁と昌豨は旧知の仲であったため、昌豨は降伏して出頭した[2]。諸将の大半は昌豨を曹操の下に送って裁断を仰ぐべきと主張したが、于禁は「包囲されて降伏した者は許されない」と言って涙ながらに昌豨を処刑した[2]。このためさらに曹操の信任を得て知行は1200戸に上り、出陣の際には常に先陣を任され、帰還の際には殿軍を任された[2]。于禁は軍を厳しく統率し、戦利品は自分の懐に入れず、それでいて部下の賞与には手厚かったというが、しかし法に厳格すぎて人心を掴むことはできなかったという[2]。また官位は陥陣都尉、益寿亭侯、左将軍虎威将軍となった[1]

みじめな晩年[編集]

219年、劉備の配下の関羽が北上して曹仁が守備する樊城を包囲した[2]樊城の戦い)。于禁は樊城の救援を命じられるが、長雨で漢水が溢れて自軍が水没してしまったので関羽に降伏した[2]。なお、于禁より遥かに新参の龐悳は曹操への忠義を貫いて潔く処刑されたが、于禁は見苦しくも命乞いして関羽に助命されて荊州江陵郡に送還された[2]。このことを聞いた曹操は「于禁が我に従って30年になるが、それが龐悳に及ばないとは思わなかった」と嘆息したという[2]。同年の内に関羽が孫権に敗れて処刑されると、江陵で捕虜になっていた于禁は孫権に救出されて江東に移され、賓客として手厚くもてなされた[2]。しかしここでも孫権の重臣・虞翻からたびたび曹操への忠義を貫けなかった不忠を咎められ[2]、孫権に見せしめとして処刑するように進言される有様だったという。

221年、劉備が関羽を殺された報復のために江東に攻め入る可能性が高まったため、孫権は文帝に藩国の礼をとり、関係強化の一環として于禁を魏に送り返すことにした[2]。この際も虞翻に処刑するように言われているが、孫権は受け入れず于禁を送り返している。

魏に帰国した于禁は髪も髭も真っ白ですっかりやつれており、文帝に謁見した際には涙を流しながら不忠を詫びたと言う[2]。文帝は表向きは于禁を慰め、安遠将軍に任命して前年に死去した曹操の陵墓に参拝するように命じた[2]。于禁が言われて参拝すると、その陵墓には于禁が関羽に命乞いしているのに対して龐悳が憤怒している壁画が描かれていた[2]。それを見た于禁は恥と怒りの余り、病気に倒れて遂に死去した[2]

死後、文帝は厲侯という禍・災厄を意味する諡号を于禁に贈り、死後までその不忠は辱められた[1][2]。また、魏で不忠者として死去した他の面々が名誉挽回したり、功臣が顕彰されたのに対して于禁は常にその対象外として名誉は挽回されることが無かったという。

人物像[編集]

裴松之は「于禁・楽進張郃張遼徐晃の功績には届かない」と評している。また文帝の最後の仕打ちに対して後世の多くの批評家が「君子の行いではない」とその行為を非難した(ただし同時代の曹操や虞翻らが于禁を批判しているのを忘れてはいけない)。

正史での列伝順は、張遼・楽進・于禁・張郃・徐晃とされている。つまり五将軍の中で3番とされているのだが、この列伝順が正しいのかどうかは疑問である。

三国志演義[編集]

小説『三国志演義』では曹操配下の武将として登場するも、史実以上に無能な武将として描かれている感がある。曹操の命令で劉琮を殺害したり、赤壁の戦いでは水軍の将となるも諸葛亮の策略にはまって矢を10万本も提供してしまい、龐悳が関羽を後一歩のところで討ち取る機会があった際には功績を奪われる事を恐れてその妨害を行なうなど[2]、凡庸あるいは暗愚な武将として描かれている。関羽から荊州を奪った孫権に救出されるのは史実通りだが、送還されるのは曹操の存命中となっておりここは時系列が少し異なっている[2]。最後の憤死の場面は史実と同じである[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、9頁
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 小出『三国志武将事典』P57

参考文献[編集]