英布

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英 布(えい ふ、? - 紀元前196年)は、末期から前漢初期にかけての武将政治家。通称は黥布(げいふ)と言われる。楚漢戦争期の九江王。前漢初期の淮南王。六(りく、現在の安徽省六安市)出身。はじめ項梁、後に項羽に従い、最後は劉邦に従うも滅ぼされた。

略歴[編集]

罪人から王へ[編集]

英布は秦の始皇帝の時代に何らかの罪を犯したので、黥(入れ墨)の刑に処せられた。このため、『史記』において司馬遷は英布のことを「黥布」と記載している場合もある。

英布は布衣(平民)であったが、その頃に客人が英布の人相を見て、「きっと罰せられた後に王になるだろう」と予言したという。その予言通り、英布は入れ墨を入れられたが、その際に「かつて客人から言われたようになるのだ」とむしろ嬉しげに笑って言いったので、聞いていた周囲の人物から笑われたという。英布は驪山(現在の陝西省臨潼県の東南)に送られ、始皇帝の陵墓造りの懲役刑に服することになった。しかし、仲間を率いて脱走し、長江の中流域まで逃亡してそこで群盗になった。

紀元前210年に始皇帝が崩御し、紀元前209年陳勝が挙兵して秦が大混乱に陥ると、英布は番の県令である呉芮に会い、その部下と共に秦に対して反乱を起こして数千の兵を集めた。この際に呉芮は娘を英布に娶せた。陳勝の敗死後、項梁が反乱勢力を継承すると、英布は項梁に自ら従った。項梁が楚の懐王(義帝)を擁立して武信君を名乗った際、英布には当陽君の称号が与えられた。紀元前208年、項梁が秦の章邯の反撃を受けて敗死すると、英布は彭城遷都した懐王に従って守備を固めた。

秦の章邯が趙を攻撃すると、懐王は宋義に楚軍を指揮させて救援を命じたが、宋義は軍中で項羽に惨殺されたので、英布は項羽の支配下に入った。英布は楚軍の先鋒として章邯率いる秦軍と何度も戦い、秦軍に劣る兵力であるにも関わらず楚軍の中では随一の軍功を挙げた。紀元前206年に項羽が秦を滅ぼすと、戦後の論功行賞によって英布には九江王の王位が与えられ、六に都を置くように命じられた。

楚漢戦争での活躍[編集]

紀元前206年4月、英布ら諸侯はそれぞれの領国に出向いたが、同時期に項羽と義帝(懐王)の仲が悪くなり、項羽は義帝を彭城から長沙に遷都させるように仕向け、その最中に英布に密命を与えて義帝を殺すように命じた。同年8月に英布は自らの部下たちに義帝を襲撃させ、遂に義帝を弑逆した(ただし『項羽本紀』『高祖本紀』では義帝を弑逆したのは呉芮と共敖になっている)。

紀元前205年、項羽の不公平な戦後の論功行賞などで諸侯には不満がたまっており、その中でも斉の田栄は項羽に対してはっきりと反逆した。これに続くように劉邦も反乱を起こして項羽の本拠である彭城を攻め落としたが、これら一連の戦いで英布は項羽に従わずに病気と称して出陣しようとしなかった。これに対して項羽は激怒し、使者を送って英布に出頭を命じようとしたが、英布は出頭してその場で殺されることを恐れて拒否した。項羽はますます英布に対して不信を募らせるも、英布ははっきりと離反したわけでもないし戦力にはなるので、責めようとはしなかった。

紀元前204年彭城の戦いで項羽に大敗した劉邦は、家臣の随何を英布のもとに送った。英布は最初は会うこと自体を拒否していたが、随何は太宰を通じてやっと英布に面会すると、項羽に味方するのが危ういこと、項羽から離反して劉邦に味方することを説いた。英布は一応は承諾したものの、まだ決心はついていなかった。そこに項羽から出兵を催促する使者が送られてきたので、英布がその使者と面談中に随何は楚の使者の上座に座ると「九江王は已に漢に帰せり」と述べた。使者は驚いて逃亡を図ったが、随何はことは既に決した、使者を殺すべきであると迫り、英布は止む無く使者を殺した。こうして項羽から離反した英布であったが、すぐに項羽から討伐軍が差し向けられ、英布は項羽軍に敗れて逃走して劉邦の下に赴いた。この際、英布の家族は項羽によって皆殺しにされている。

英布を出迎えた劉邦は手厚く待遇し、紀元前203年に英布を淮南王に封じた。そして劉邦の従兄である劉賈と共に九江に赴き、ここで項羽の部下であった周殷に対して項羽から離反するように調略した。そして紀元前202年垓下の戦いで劉邦軍などと連携して項羽を破り、項羽を自殺に追い込んだ。この功績により、英布は劉邦から九江などを所領として与えられ、六を都とした。

最期[編集]

項羽を倒して前漢を建国した劉邦は、皇帝に即位してからは功臣の存在を恐れて粛清をするようになった。紀元前197年に劉邦によって淮陰侯に格下げされていた韓信、さらに梁王の彭越が劉邦とその皇后の呂雉によって誅殺される。特に彭越の屍は塩漬けにされて英布の下にまで届けられたので、英布は次は自分が粛清されるのではないかと疑いだした。同時期、英布が寵愛していた姫(側室)と部下の費赫が密通しているのではないかという疑いが上がり、英布は費赫を逮捕しようとした。しかし、それを事前に察知した費赫は前漢の首都である長安に赴き、そこで劉邦に対して「英布が謀反を企んでいる」と讒言する。劉邦はそれを聞くと、使者を送って英布の調査に当たらせたので、英布は最早逃げられないと悟って劉邦に対して謀反を起こした。

劉邦は英布の反乱を聞くと自ら兵を率いて親征し、東に向かった。英布の軍と劉邦の軍は現在の安徽省宿県の南で向かい合い、劉邦が英布に対して「なぜ背いたのか」と尋ねると、「帝と為らんと欲するのみ」とだけ答えたという。英布軍は懸命に戦うも遂に劉邦軍に敗れ、英布は姻戚関係にあった呉芮を頼って番陽(現在の江西省鄱陽県)に向かったが、同地において民衆に捕縛されて殺されたという。

この英布の反乱で劉邦は流れ矢に当たって負傷しており、後にこれが悪化して紀元前195年に死去することになった。

評価[編集]

司馬遷は「論賛」で英布を次のように評している。

  • 「刑罰を被った英布が急激に活躍の場を得たこと、そして項羽が穴埋めにした千とか万をもって数える虐殺の先頭に(英布が)いたことを振り返ると、(英布が)功は諸侯第一で王にまで上ったものの、最後には恥辱を免れなかった。それも災いは寵姫への嫉妬から患難が生じ、国を亡ぼすことになった」