吉川英治

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吉川英治(よしかわ えいじ、1892年8月11日 - 1962年9月7日)は、日本の時代小説・歴史小説家。

人物[編集]

本名:英次(ひでつぐ)。神奈川県(現横浜市)出身。武士の家柄だったが家運が傾き、小学校を中退して様々な職業に就く。「狐を馬に乗せ物語」など滑稽小説が三編一度に雑誌の懸賞に当選するなどして次第に頭角を現す。

「神州天馬侠」のような少年小説や、阿波蜂須賀家の秘密をめぐる伝奇小説「鳴門秘帖」(1933)などをへて、「宮本武蔵」(1939)で一世を風靡する。

戦後も、『新書太閤記』『三国志』『新・平家物語』『私本太平記』を書いた。『太閤記』は1965年のNHK大河ドラマの原作だが、豊臣秀吉晩年の愚行は描かず、小牧・長久手の戦いで終わっている。『三国志』も原作に色々手を加えており、のち横山光輝がマンガ化したものは、原作ではなく吉川作品だが、クレジットはされていない。武将・張こうが三度死ぬなどの手違いがある。『私本太平記』は、戦時下の小学校では悪人と教えられた足利尊氏を主役に据え、1991年大河ドラマ『太平記』の原作となった。

大衆文学のための文学賞は、1935年に直木三十五賞が創設されていたが、吉川はその時にはすでに新人ではなかったため、1953年に菊池寛賞を受けたのが初めての受賞だった。1956年に朝日文化賞、1960年に文化勲章を受けたが、日本芸術院会員にはなれず、文化勲章を佐藤春夫とともに受賞した時、大衆作家と一緒では佐藤がかわいそうだ、と中野重治が書いたことがある。川端康成などとは親しく、『私本太平記』を未完のまま死去し、同作で毎日芸術賞を受賞した。

講談社は吉川英治文学賞を設け、大衆文学の作家の到達目標となっているが、宮本輝が若くして受賞するといったこともある。同新人賞、吉川英治文庫賞も設けられている。

作品[編集]

関連項目[編集]