彭越
彭 越(ほう えつ、? - 紀元前196年)は、中国の秦末期から楚漢戦争にかけての武将。字は仲。秦末期の戦乱の中で盗賊として活躍し、劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げたが、最後は粛清された。
略歴[編集]
碭郡昌邑県(現在の山東省菏沢市巨野県)の出身。鉅野(現在の山東省巨野県)の沢中の漁師をしながら、時には群盗のような真似もしていたという。紀元前209年に秦に対して陳勝や項梁が挙兵すると、彭越も仲間を集めて挙兵した。
後に項羽と劉邦が覇権を競う楚漢戦争の時代になると、彭越は兵を率いて劉邦に味方したので、魏の宰相に任命された。彭越は漢軍の遊撃部隊として各地で項羽軍と戦って軍功を挙げ、紀元前202年に垓下の戦いに参加して項羽の滅亡に貢献した。これにより、劉邦からこれまでの功績を賞されて梁王に封じられ、定陶を都と定めた。
しかし、項羽を滅ぼして前漢の皇帝として即位した劉邦は、次第に楚漢戦争における功臣の存在を恐れて粛清を開始する。紀元前197年に淮陰侯に格下げされていた韓信が誅殺されると、彭越も謀反の罪を理由に逮捕されて洛陽に送られる。劉邦は恩赦を発して彭越を庶民に格下げした上で、蜀に身柄を移そうとした。しかし長安から洛陽に向かっていた劉邦の皇后である呂雉に出会うと、辺境に流罪にされることを嫌って自身の無罪と故郷に帰って余生を送りたいと嘆願したことから、呂雉はひとまず彭越の訴えを聞き入れるふりをして洛陽にまで連れ帰り、その上で劉邦に禍根を残さないようにするために彭越を誅殺するように進言した。劉邦はさすがに誅殺まではためらっていたが、呂雉は彭越の旧臣を買収して彭越が謀反を計画していると劉邦に誣告させたので遂に劉邦も決心して彭越を処刑し、その一族も皆殺しとした。
劉邦は彭越を殺した後、その遺体を塩漬けにして諸侯に下賜するという処置まで行なった。このため、次は自分が粛清されると猜疑した英布により反乱を起こされる一因となった。