全日本学生自治会総連合

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全日本学生自治会総連合(ぜんにほんがくせいじちかいそうれんごう)は、1948年に結成された全国の大学学生自治会の連合組織。略称は全学連(ぜんがくれん)。現在は5つに分裂している。

歴史[編集]

前史[編集]

戦後、学生運動が復活し、全国の高校や大学で学園民主化運動が闘われた。その中で1946年5月早稲田大学において全国で初めて全員加入の学生自治会が結成された。この早大での学生自治会結成がモデルとなり、同年11月学生自治会の連合組織として「全国学生自治会連合」が結成された。また1946年2月日本共産党の青年組織として「日本青年共産同盟」(青共)が結成され、各大学に大学班や社研を組織した。こうした学生運動の発展は1947年の二・一スト敗北後のGHQや政府による弾圧、学生運動を軽視する日共の方針によって一時停滞するが、大学理事会法案、国立大学の授業料3倍値上げ案をめぐって再び動きを開始した[1]

結成[編集]

1948年6月1日日比谷公会堂に5000人が集まり、大学理事会法反対、国立大学授業料値上げ反対を掲げた「教育復興学生決起大会」が開催された。同月中に「全国官公立大学高等自治会連盟」が結成され、私学系の「全国学生自治会連合」の支援の下、6月23日から26日にかけて全国114大学参加学生20万人の大規模ストライキが闘われた。このストライキを契機として7月に開催された全国公私立大学高等代表者会議で全学連の結成が決定され、9月18日から20日にかけて東京第二師範学校、早大、東京商科大学で開催された大会で「全日本学生自治会総連合」(全学連)が結成された。参加は全国145大学の学生自治会、30万人。初代委員長は武井昭夫東京大学自治会委員長、日共東大細胞リーダー)[1]。東京に中央執行委員会書記局を置き、地方学連―都道府県学連―各加盟自治会という組織系統を有した[2]。初期の全学連は大学法反対ゼネスト(1949年5月24日)、レッドパージ反対闘争、朝鮮戦争反対、全面講和運動などを闘った[3]。1949年に国際学生連盟に加盟。

日共と全学連[編集]

全学連は結成当初から1955年7月の六全協の頃まで日本共産党の強い影響下にあった。1949年から1950年にかけて労働者階級を重視し学生を青年ないし労働者の一部と見る日共と、独自の役割を持つ学生は階級闘争の主体に成り得るとする「層としての学生運動論」(武井理論)を支柱とする全学連中央の対立が表面化した[4]。1950年1月のコミンフォルム批判を契機に日共が分裂すると反主流派の国際派を支持したが、1952年6月の第5回大会で武井ら旧執行部は追放され、主流派の所感派を支持する玉井仁委員長の新執行部が発足した。所感派が主導する党の武装闘争路線に従い、学生運動家は山村工作隊中核自衛隊、地域サークル活動などに参加した。1953年に入ると武装闘争路線からうたごえ運動やスポーツの奨励といった大衆路線に急転換し、学生運動に大きな混乱と低迷をもたらした。1955年7月の六全協で日共が武装闘争路線を放棄すると、特に山村工作隊など武装闘争の先頭に立っていた学生党員の間で「六全協ショック」「六全協ノイローゼ」「六全協ボケ」と呼ばれる虚脱感、指導部に対する不信感が広まり、離党者や自殺者も出た。党の方針転換を受けて全学連第7回中央委員会は、政治運動は行わず学生の日常要求を取り上げていくとする「自治会サービス機関論」を打ち出したが、多くの学生はこの方針に従わなかった。1956年の全学連第8回中央委員会、第9回大会で学生運動の混乱と低迷を自己批判し、「平和擁護闘争」を第一の任務として再び大衆的政治闘争路線に乗り出した。第9回大会では香山健一が委員長に選出され、のちの「労学提携―先駆性理論」につながる「国民各層との提携―先駆的役割」が提起された[5]。第9回大会後の第二次全学連は砂川基地拡張反対闘争、原水爆実験反対闘争、勤務評定反対闘争、警職法反対闘争などを闘った。この間、スターリン批判ハンガリー事件を背景としてトロツキスト集団の「日本革命的共産主義者同盟」(革共同)が結成された。

日共との決別[編集]

1958年5月28日から4日間かけて開催された全学連第11回大会で主流派と党中央に忠実な反主流派が対立。同年6月1日、党中央が開催した全学連大会代議員グループ会議で一部の全学連主流派党員と党中央役員の間で暴力事件が起こり(6・1事件)、全学連グループは党中央委員の不信任を決議した。これに対し党中央は香山委員長ら72名を除名等の処分に付し、全学連は日共と決別することとなった。同年12月10日、香山健一、森田実島成郎ら日共を除名された全学連主流派党員は「共産主義者同盟」(共産同、ブント)を結成した。12月13日の全学連第13回大会で当初はブントにもメンバーが参加していた革共同が全学連の主導権を握り、塩川喜信が委員長に選出された。

安保全学連[編集]

1959年6月の全学連第14回大会でブントが革共同から主導権を奪い返し、唐牛健太郎が委員長、清水丈夫が書記長に選出された。ブント全学連は60年安保闘争で主導的役割を担い、世界に「ZENGAKUREN」の名を知らしめた(安保全学連)。1959年11月27日、安保改定阻止国民会議の第8次統一行動で全学連のデモ隊が労働者の先頭に立って国会に突入し(逮捕者5人)、社共から非難を浴びた。1960年1月16日、岸信介首相の訪米を阻止するため約700人が羽田空港ロビーを占拠した(逮捕者80人)。4月26日、第15次統一行動で全学連活動家が機動隊の装甲車を乗り越えて国会に突入した。5月20日に全学連の約300人、6月3日に約9000人が首相官邸に突入した。6月10日、アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせで来日したハガチー大統領新聞係秘書の自動車が羽田空港近くの路上で全学連反主流派(日共系)や労働者のデモ隊に取り囲まれて立ち往生し、ハガチーは米軍ヘリコプターで脱出した(ハガチー事件)。6月15日、第18次統一行動で全学連の約1500人が国会に突入し(逮捕者167人)、警官隊との衝突の中で東大文学部3年生、ブント活動家の樺美智子が死亡した。樺の死は一般の市民にも大きな衝撃を与え、樺は安保闘争の象徴的存在となった。デモ隊が国会を取り囲む中、6月19日午前零時に日米安全保障条約は自然承認され、23日に岸首相は退陣を表明した。

3つの全学連[編集]

安保闘争後、ブントは「戦旗派」「プロレタリア通信派」「革命の通達派」の3つに分裂し、のちに多くの活動家が「革命的共産主義者同盟全国委員会」(革共同全国委)に移行した。1961年4月の全学連第27回中央委員会の役員改選で革共同全国委の学生組織「日本マルクス主義学生同盟」(マル学同)が全学連執行部を独占した(北小路敏委員長)[6]。7月にブント系の社学同、トロツキスト系の革共同関西派、社会党系の社青同の3派(つるや連合)が反マル学同の立場で飯田橋のつるや旅館に集まり、全学連第17回大会で主流派のマル学同と衝突した。1963年4月に革共同全国委が中核派革マル派に分裂した後は革マル派が全学連の執行部を独占した。

1962年8月に日共系は「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)を結成し、1964年に全学連を再建した(川上徹委員長)。1966年9月1日にブント・マル戦派と統一派が合流して第二次ブントが結成され、12月17日に中核派、社学同、社青同解放派によって「三派全学連」が結成された(斉藤克彦委員長、高橋孝吉書記長。斉藤はのち明大闘争でのボス交の責任を問われて罷免され、中核派の秋山勝行が委員長に就任)[7]

4つの全学連[編集]

1968年6月15日、日比谷野外音楽堂で行われた「ベトナム反戦青年学生総決起集会」で中核派と解放派・革マル派連合が衝突した(6・15事件)。これを契機として7月の三派全学連大会で中核派全学連が独立し、反中核派連合(社学同・ML派・解放派・第四インター)は「反帝全学連」を結成した(藤本敏夫委員長)。1969年7月に解放派は独自の全学連を結成した[8]

5つの全学連[編集]

1999年に上部団体の革労協狭間派が革労協現代社派革労協赤砦社派に分裂したことに伴い、解放派系全学連も分裂した。以降は日共=民青系及び新左翼党派の傘下にある5つの学生団体が全学連を名乗っている。

  1. 民青系全学連(共産党系全学連、日共系全学連、代々木系全学連とも)
  2. 革マル派系全学連
  3. 中核派系全学連
  4. 革労協現代社派系全学連
  5. 革労協赤砦社派系全学連

脚注[編集]

  1. a b 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年、10-18頁
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 コトバンク
  3. 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 コトバンク
  4. 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年、25頁
  5. 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年、35-36頁
  6. 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、275頁
  7. 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年、77頁
  8. 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年、105-106頁

参考文献[編集]

  • 島成郎、島ひろ子『ブント私史――青春の凝縮された生の日々 ともに闘った友人たちへ』批評社、2010年
  • 高木正幸『全学連と全共闘』講談社(講談社現代新書)、1985年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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