熊倉啓安

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

熊倉 啓安(くまくら ひろやす、1927年5月22日 - 1995年3月9日)は、平和運動家。元・日本平和委員会事務局長[1]

経歴[編集]

栃木県佐野市生まれ[2]陸軍士官学校在学中に敗戦を迎えた。1948年日本共産党に入党[3]旧制水戸高等学校を経て、1949年東京大学経済学部に進学[2]全学連中央執行委員となり、1950年10月レッド・パージ反対闘争を指揮したとして退学処分[2][3]。全学連を代表して平和擁護日本委員会に参加、世界平和評議員[2]。1953年から平和擁護日本委員会(1956年日本平和委員会と改称)の専従[3]。以降、原水爆禁止運動、基地反対闘争、日中・日ソ国交回復運動、日韓条約反対運動、反安保闘争、ベトナム人民支援運動、沖縄返還運動などに関わり[4]、主に理論面を担当した[3]

1955年の第1回原水爆禁止世界大会の開催に裏方として大きな役割を果たした[3]。1961~1974年日本平和委員会事務局長[2]。1975年「原水爆禁止運動の統一をめざす七者懇談会」では共産党側を代表する形で共同座長を務めたが、党中央の同意を得られず党から処分を受けた[3]。1976年6月まで日本平和委員会副理事長・原水爆禁止日本協議会(日本原水協)担当常務理事[2]。1986年から日本平和委員会代表理事[5]、のち顧問[3]

人物[編集]

1958年の第4回原水爆禁止世界大会の際、共産党系の参加者から大会宣言に勤務評定反対闘争を盛り込むべきだとする声が上がったが、熊倉(当時日本平和委員会日本原水協理事)はこれに批判的で、勤評反対を世界大会で決議しなかったのは正しかったと翌年に刊行した『戦後平和運動史』(大月書店)で述べている。しかし、1959年3月に日本原水協は安保条約改定阻止国民会議の幹事団体となり、政治色を強めるにつれて保守派や社会党総評などが離脱した[6]

1963年の第9回原水禁世界大会は社会党・総評系と共産党系の対立で原水爆禁止広島県協議会(広島県原水協)に運営がまかされた。しかし、大会直前に社会党・総評が不参加を決定し、開会総会の最中に席を立つものが続出した。開会総会終了後に広島県原水協は日本原水協に運営を引き継いだが、熊倉は「一番苦労した広島県原水協が大会決議案を起草するのが至当」と提案したという[7]

1972年の新日和見主義事件に連座して共産党から査問を受けたとされる。元全学連委員長・民青中央常任委員の川上徹は「原水禁運動や平和運動を中心的に担ってきた個人加盟の全国組織である日本平和委員会でも、全国理事の一人が査問されたということだった」と述べている[8]。また青年学生運動以外で事件に連座した人物について、「僕が知っているのは、労教協森住和弘国労細井宗一、平和委員会の熊倉啓安、JPの川端治(山川暁夫)・高野孟(香月徹)あたりだけど、みんな主張はそれぞれだったと思う。議論してすりあわせたなんてことは一回もない」と述べている[9]

著書[編集]

  • 『戦後平和運動史』(大月書店[戦後史双書]、1959年)
  • 『日本平和運動の歴史と伝統』(平和書房[平和新書]、1968年)
  • 『原水爆禁止運動はいま』(労働教育センター、1978年)
  • 『原水禁運動30年』(労働教育センター、1978年)
  • 『日本の防衛――青年をねらう80年代安保』(畑田重夫共著、学習の友社[学習文庫]、1980年)

出典[編集]

  1. 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
  2. a b c d e f 吉田嘉清「熊倉啓安」、朝日新聞社編『現代人物事典』朝日新聞社、1977年、447頁
  3. a b c d e f g 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年、218頁
  4. 岩垂弘「日本の核兵器廃絶運動のあり方を批判」リベラル21
  5. 岩垂弘「熊倉啓安」、朝日新聞社編『「現代日本」朝日人物事典』朝日新聞社、1990年、602頁
  6. 国富建治原水爆禁止運動「分裂」の歴史がいま私たちに問うているもの」かけはし2011.11.28号
  7. 北西允「原水禁第9回世界大会を回顧する」21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ(2010年9月)
  8. 川上徹『査問』筑摩書房、1997年、122頁
  9. 川上徹、大窪一志『素描・1960年代』同時代社、2007年、339頁

関連文献[編集]