早川長政
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早川 長政(はやかわ ながまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。豊後国府内城主で2万石の大名である[1]。
略歴[編集]
秀吉に仕え、文禄3年(1594年)に豊後府内城主1万7000石の大名に封じられる。ところが、慶長の役に参加している際に軍監の熊谷直盛、福原直高らにより不手際ありとして秀吉に訴えられて改易処分となった。この際に熊谷や福原による報告で秀吉に処罰された大名は数多く存在し、これが秀吉没後の七将事件の一因をなした。そして、七将事件を裁定した徳川家康により、慶長4年(1599年)に長政は大名として旧領復帰を許され、所領も以前より3000石を加増されて2万石とされた[1]。
ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大坂淡路町を警備した。7月には細川幽斎が守る丹後国田辺城攻めに参加(田辺城の戦い)。9月13日に田辺城は開城したが、その2日後の本戦で西軍は壊滅した[1]。
戦後、長政の府内城は幽斎の嫡子・忠興により降伏勧告がなされて開城。長政は改易されて浪人となった。慶長19年(1614年)から大坂の陣が始まると大坂城に入城して豊臣方の一員となるが、慶長20年(1615年)に豊臣氏が滅亡した後の行方は不明となっている[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]