二木寿斎記
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は信濃国の守護大名で戦国大名でもあった小笠原氏に仕えた二木寿斎。寿斎は小笠原長時に仕え、長時の孫・秀政の希望により、長時と二木氏の武功を記録したものといわれている。実際、巻末に「兵部太輔様御望に付前後仕候へとも拙者存知覚申候之通荒増書記差上申候以上」とある。
なお、巻末にはその後に「慶長16年(1611年)辛巳年十月吉日、二木豊後入道寿斎」とあるため、成立したのが慶長16年10月であることがわかる。
ただ、小笠原長時に仕えていたことを考慮すると、寿斎はこの時点で恐らくかなりの高齢だったと推定される。同書において寿斎は自分の初陣を「天文13年(1544年)、15歳の時」としているので、生年は恐らく享禄3年(1530年)であり、成立したのが80歳を超えていたことになるため、本人の書き間違えなどの可能性の恐れがある誤りが幾つも見られる。
別称は『寿斎記』(じゅさいき)、『二木家記』(にきかき)。
内容[編集]
全1巻。武田信玄との戦いに関しての長時や寿斎の事績についてを描いている。長時が信玄に敗れて信濃から没落した後も、長時の動向や天正壬午の乱における長時の子で秀政の父である貞慶の松本回復、その際の寿斎の活躍を描き、締めは「御屋形様(貞慶)の武勇が偏に優れており、侍とも貞慶公に随し主君と奉仰候」と讃えて終幕を迎えている。
ただ、著者が80歳を過ぎて書いているためか、混乱が見られる。この記録は寿斎が自分の年齢を基準にして、恐らく自分の記憶を頼りに時間を区切ったような特徴が見られる。そのためか、高齢の寿斎では恐らく以下のような混乱が起きたものと思われる。
- 小笠原長時が諏訪頼重を味方につけて、武田信玄(当時は晴信)を攻めたことになっている。頼重の妻も長時の家老の娘となっている[注 1]。
- 前述しているが、寿斎の初陣が天文13年(1544年)になっている。ところが、晴信が頼重を甲府で殺害した事件を「某十六歳の正月也」としている[注 2]。
- 成立年代を慶長16年と紹介したが、巻末には16年の後に「辛巳」とある。しかし慶長16年は「辛亥」のはずである。
以下の点から、この記録は経験者が描いているとはいえ、不安が残る部分がある。なお、二木寿斎が書いたゆえに仕方ないが、父の二木重高の忠節についても描かれている。