前波吉継

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前波 吉継(まえば よしつぐ、大永4年(1524年) - 天正2年1月19日1574年2月10日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将朝倉氏織田氏の家臣。後に桂田 長俊(かつらだ ながとし)と改名した。父は前波景定。兄は前波景当。子は新七郎。通称は九郎兵衛。受領名は播磨守。

生涯[編集]

越前国戦国大名である朝倉氏の家臣・前波景定の次男で、朝倉義景に仕え、奉行衆に任命される。永禄5年(1562年)に一乗谷阿波賀河原の曲水の宴に参加している。元亀元年(1570年)に前波氏の当主だった兄・景当が志賀の陣における堅田の戦いにおいて戦死したため家督を相続した。

元亀3年(1572年)に朝倉義景と対立していた織田信長と対陣中に吉継は朝倉陣から白昼に堂々と織田信長の陣に走って降伏した。これは前年に義景より勘気を被っていたためといわれている。天正元年(1573年8月に信長が義景を刀禰坂の戦いで破って越前入国を果たした際にはその道案内役を務め、さらに亥山城に立て籠もる朝倉義鏡を攻めた際にはその先陣を務めた。これらの功績を信長に認められ、一乗谷の朝倉旧館を与えられて越前の守護に任命され、事実上の越前国主となった。その後、信長の上洛に従ってこの際に桂田播磨守長俊と改名するが、越前への帰途の途上で眼病にかかって失明する。

さらに桂田が越前守護に任命されたことに不満を抱いていた元同僚の富田長繁越前一向一揆と手を結び、天正2年(1574年)に反乱を起こされる。失明していた桂田は指揮が執れず、一族もろとも殺害された。享年51。