朝倉宗滴

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朝倉 宗滴(あさくら そうてき、文明9年(1477年)? - 天文24年9月8日1555年9月23日))は、戦国時代武将越前国戦国大名朝倉氏の一族で家臣朝倉貞景朝倉孝景(宗淳)・朝倉義景の3代の朝倉氏当主を一族の参謀格としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。教景(のりかげ)で、有名な宗滴法名である。戦国時代においても伝説的な名将のひとりとして現在では知られている。

生涯[編集]

父は朝倉氏の戦国大名化を成し遂げた英傑の朝倉孝景(英林)。は桂室永昌大姉(逸見氏養女で、温科氏の娘)。

宗滴は8人兄弟の末子であったため、家督相続の可能性は極めて薄かった。ただし、名前の教景はそもそも朝倉氏の先祖代々の名乗りであり、また庶子であったならば普通は「景」が上につくはずなのだが、宗滴の場合は下に付いていることから、母親の身分が極めて高かった可能性がある。幼名の小太郎(こたろう)にしても父の孝景と同じ名乗りであるため、嫡子としてかあるいはかなり厚遇されていた可能性がある。ただし、父親が死去したときに宗滴はまだ5歳、あるいは8歳の少年だったことから、当時の越前の情勢を考えると幼児に家督が回る可能性はほとんど無く、相続者として除外されたと見られている。

宗滴の初陣は18歳、明応3年(1494年)に福井県坂井市豊原寺に出陣し、そこにいた浪人と戦ったのが最初とされている(『朝倉宗滴話記』)。

宗滴が最も大規模な戦いを経験したのは、30歳の時である。相手は当時、強勢を誇っていた加賀一向一揆であり、その際には自ら戦場を駆け抜けて馬上より薙刀で敵を討ちとり、それを部下の中村清右衛門に取らせたとされている(『朝倉宗滴話記』)。宗滴に敗れた加賀一向一揆は、翌年にリベンジを果たすべくまたしても越前に侵攻してきたが、宗滴はこれに対して福井県あわら市金津町にある帝釈堂付近に伏兵を配置して待ち伏せ、敵の来るタイミングを見計らって自ら馬に乗って出陣し、敵を大いに打ち破って自らも敵の首を取り、その首を宮内左衛門という部下に取らせたという(『朝倉宗滴話記』)。

宗滴はその後、越前や加賀だけではなく、近江国京都美濃国など近隣に軍を進めた。宗滴の軍事能力を全面的に信任していた朝倉氏の歴代当主は、自らは出陣せず、常に宗滴を武者奉行に任命して総指揮権を預けていたのだという。51歳の時に宗滴は京都に出陣し、泉乗寺の戦いで自ら敵を3名、鑓で突き殺して部下に首を取らせたという記録もある(『朝倉宗滴話記』)。

『朝倉宗滴話記』によると、宗滴は死去するまでに12回の大きな合戦を経験し、野戦での合戦経験は7度あり、そのうちの3度は自分自身が戦場を駆け抜けて武器を奮って敵の血で塗らしたとある。宗滴は総大将であるが、決して後方にいるような大将ではなく、自分も最前線に出て戦う勇猛な武将だったようである。

また、『朝倉宗滴話記』では合戦も大事だが、事前の用意も大事であることが記録されている。宗滴は70歳を超えても北にいる加賀一向一揆の存在を警戒し、毎年九頭龍川より北の道筋を見極めようと鷹狩をしばしば行なっていたという。これは、加賀一向一揆が越前に侵攻するに違いないから、その際に備えて道など地理を検分するためにしていたものとされており、武者奉行として総大将の地位にあるものが地理不案内で地図に頼るようでは情けない、としている。

こうして宗滴は貞景・孝景・義景の3代にわたる朝倉氏宗家の当主をよく支えてきた。特に天文17年(1548年)に孝景が死去し、16歳の若き義景が跡継ぎになった際には、義景の器量を心配して自らが政務・軍事をよく補佐して朝倉氏を支えた。義景のためならば「(自らの)足腰が立つならば、たとえ100歳になっても戦う」と言い、自らの孫のような義景を「御屋形様」と敬っていたという。

晩年の宗滴は義景の器量を心配し、様々な武将学を叩き込んで教育する一方、あることを言っていた。それは、義景より1歳下で宗滴の死亡時にまだ22歳になったばかりの尾張国織田信長であり、宗滴は信長が並の武将ではない、人の使い方が上手であると評し「あと3年は長生きしたい。長生きして信長の行く末を聞き届けたい」という願望を持っていたと『朝倉宗滴話記』は伝えている。

しかし、その願望はかなわなかった。天文24年(1555年)、宗滴は80歳に近い高齢を押して自ら加賀に出陣し、加賀一向一揆と戦うが、間もなく高齢で無理したのがたたって陣中で病気に倒れた。このため、一族の朝倉景隆に総指揮を任せて自らは一乗谷に帰還して養生するが、回復しないまま9月に没した。享年は82、あるいは79と伝わっている。

宗滴があまりに優秀すぎたため、その後の朝倉氏は徐々に衰微しだした。総指揮を任された景隆には宗滴ほどの実力は無く、加賀一向一揆に敗戦する。義景は酒と女に溺れて政務をまともに顧みず、朝倉一族はそんな当主を尻目に権力争いを繰り返した。このため、足利義昭が上洛を要請したときですら義景はそれに応じず、好機を逃がすだけ逃がして最終的に宗滴の死から18年後、宗滴がその将来を見てみたいと述べていた織田信長に刀根坂の戦いで敗れた義景は自害し、朝倉氏は滅亡してしまうことになる。

人物像・逸話[編集]

  • 宗滴には多くの逸話が伝わる。『朝倉宗滴話記』から伝わるものを紹介する。
    • 「武士は犬と呼ばれようが、畜生と呼ばれようが、勝つことが根本である」
    • 「英林様(宗滴の父・孝景のこと)が白髪頭に甲を召され、骨折られた国である」(孝景様が老齢でありながら取られた国が越前なのである、と父を尊敬している言葉である)
    • 「我は生涯で1度として、合戦で後方にいたことはない」
    • 「人は年をとると、夜は眠れずに退屈するものだが、自分は違う。なぜなら、北辺の加賀だけではなく、越前を取り囲む国々との戦いを常に意識し、隣国を切り取る謀をめぐらし、また御屋形様を在京させるための武略など、様々な思案をしていると夜が明けてしまうからだ」
    • 「敵の行ないをよく知ることが大事の秘事である。いつも敵の者に銭や黄金を与えれば、ありのままを知らせてくるものである。隠密にことを運ぶので、皆はそれを知らない。そのような行ないをするのが名将である」(敵の偵察、情報収集の重要性を述べている)
    • 「陣取り、陣替え、出陣はおよそ雨の降る日の用意をして、諸事を申し付けよ。そうすれば晴れる日に逢うものである。このことは鷹狩や普請などにおいても同じ覚悟が必要である。およそ海上においても時化や台風に出会うこともある。ものの下手は晴れた日をもとに用意すれば、出撃や作事の時に荒天に逢ってしまうものである」(合戦とは晴れの日を想定して準備するのではなく、悪天候に照準を合わせるように説くもの)。
    • 「功者の大将とは、一度大敗北という辛酸を舐めて初めて到達できる」
    • 「大将たる者は言葉に慎重でなければならない。なぜなら兵はその大将の言葉に気持ちまでが左右されてしまうからで、だから合戦の最中にこの戦いで敵を倒せないと思っても、それを口に出してはならない。兵士は心中で見切りをつけてしまい、懸命に戦わなくなってしまう。また逆に敵を攻めていて「これは勝った」などと言ってはならない。そう言ってしまった後に敵軍が盛り返したら、自軍の平常心が失われてしまうからである」
    • 「身分の高い低いによらず、武士を心掛ける者は、第一に嘘をついてはならぬ。また不誠実であってはならず、いつも義理堅く、恥を知ることが基本である」
  • 父を早くに失った宗滴の育ての親は叔父の朝倉景冬(芳永)であったが、その景冬から宗滴は19歳の時に「合戦の時、武者奉行たる者は軍勢の後方にいるのは悪いことで、前方にあるのが基本である。理由は兜付きの首や戦利品を分捕った者、また怪我をした者が大将に見せようと旗本に集まってくる。さらに大将が前にいると最前線に味方の軍勢が集まって、総軍は強くなる。しかし大将が後方に控えていれば、退却には都合がいいが、戦線の兵がばらけて敵に付け込まれて負けてしまう」という教えを受け、宗滴はこれを教訓にして常に総大将でありながら前線で戦ったと伝わる。この総大将でありながら最前線で戦う姿勢は、織田信長や黒田長政蒲生氏郷などに通じている。
  • 宗滴は馬について、時々は堅い大豆を水でふやかして与えるように指示していた。これは野戦となって鍋釜が無い時の用心に馬を事前に慣らさせておくためだったという。
  • あるとき、家臣が首実検でまだ子供の首を持ってきた。宗滴はこれを激怒して突き返し、神仏を信じる大切さを説くと共に、何でも神頼みして信じきる愚かさを諌めたと言う。
  • 宗滴は記録によると今川義元武田晴信三好長慶長尾景虎毛利元就正木時茂、織田信長の7名を優れた器量人、人使いの上手な武将として注目していたという。特に信長に関してはまだ尾張統一前の22歳でその実力を見抜いており、その観察力は驚嘆に値する。

関連作品[編集]