朝倉景鏡
朝倉 景鏡(あさくら かげあきら、? - 天正2年4月14日(1574年5月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏一門で家臣。後に織田氏の家臣となる。
生涯[編集]
父は朝倉孝景の弟・朝倉景高。朝倉義景の従兄にあたる。仮名は孫八郎。官途は式部大輔。
永禄9年(1566年)頃から朝倉義景より大野郡の支配権を委ねられていることが確認できる。永禄10年(1567年)、永禄の変により越前国に亡命してきた足利義秋より式部大輔に補された(『朝倉家記』)。永禄11年(1568年)5月17日、関白の二条晴良を越前に迎えた際に義景は義昭とともに自宅に招いて宴会を開催したが、その際に義昭に謁見した順序は1番が景鏡、2番が朝倉景健、3番目が朝倉景尚であった(『朝倉義景亭御成記』)。このことから、朝倉家家臣団の中でも最高位にあったものと推測される。
その後、信長包囲網が布かれて織田信長と朝倉義景が敵対すると、元亀元年(1570年)の宇佐山城攻撃や堅田攻撃などに従軍(『浅井三代記』『歴代古案』)。同年9月、宇佐山城を落とした朝倉軍が京都に攻め込んだ際には、義景に代わって各所に禁制を発する役割を果たしている。元亀3年(1572年)8月には朝倉軍の大将を務めて織田方の宮部城を攻めている(『朝倉記』)。
しかし、武田信玄の病死や足利義昭追放による室町幕府滅亡など、情勢は一気に朝倉方圧倒的不利になる。そして天正元年(1573年)8月、義景が近江国の浅井長政を助けるために援軍として出陣する際には、「長年の出陣で疲労のため出陣できない」として拒否し、越前の守備役を務める。この出陣で朝倉軍は織田信長自らによる越前侵攻(刀根坂の戦い、一乗谷の戦い)により壊滅し、残っていた景鏡は義景を助けて一乗谷から大野へ落ちるように勧めるも、『信長公記』によると信長に通じて義景から離反し、自ら軍を率いて義景を襲撃し自害に追い込み、その首級を信長に差し出したことにより助命され、大野郡を安堵されて信長の家臣となった。
天正元年(1573年)11月、上洛して信長に歓待され、この際に正式な所領安堵を受けている。また、この際に土橋(どばし、あるいはつちはし)と改姓した(『朝倉記』)。12月8日には里村紹巴らを招いて連歌会を開催している。
天正2年(1574年)からの発給文書で、自らの名を「信鏡」と改名しているのが確認できるので、恐らくこの年に土橋 信鏡(どばし(つちはし) のぶあきら)と改名したものと思われる。信の字は織田信長からの偏諱と推定される。この年の2月18日、4月4日に家臣に対して自らの所領安堵状を発行するなど、大野郡の政務を執行していた形跡が確認されている。しかし、間もなく越前一向一揆による一向宗の攻撃を受け、平泉寺において殺害された(『朝倉記』)。
関連作品[編集]
- 赤神諒『酔象の流儀 朝倉盛衰記』(講談社、2018年12月18日)