筒井氏
筒井氏(つついし)とは、日本の氏族である。織田信長や豊臣秀吉に仕えた筒井順慶・筒井定次で著名な一族である。一族の通字は「順」あるいは「定」。
概要[編集]
大和国添下郡筒井郷(現在の奈良県大和郡山市)を発祥とする。天児屋根命の子孫を自称した[1]。
元々は武家ではなく興福寺一乗院門跡の坊人として世に出ている。室町時代中期に筒井順快が筒井城を築城して当地の土豪として勢力を持つようになる。子の筒井順永は応仁の乱に参加して武名を挙げた。戦国時代になると戦国大名に成長して勢力を振るったが[1]、名君だった筒井順昭が若死にしたことが没落の契機となる。子の順慶は家督相続の時点でわずか2歳であったためで、順昭の死を見て大和国内あるいは国外から筒井氏に向けて侵攻が始まる。特に畿内で三好政権の重鎮として勢力を振るっていた松永久秀の侵攻は凄まじく、筒井氏は一時退転するしかなかった。
後に畿内で織田信長が織田政権を築き上げると、順慶は一時的に信長と敵対するも後に降伏して臣下となる。そして明智光秀の与力、縁戚となって織田政権下で大和国を知行する大名となった[1]。ところが天正10年(1582年)6月の本能寺の変で光秀が信長を殺したため、順慶は去就に迷いながらも誤らず、信長の後継者となった羽柴秀吉に属して存続を成し遂げた。しかし、順慶はわずか2年後に死去し、甥の定次を養子として跡を継がせた。
定次は秀吉に従ったが、順慶の死を見た秀吉より要地の大和国から伊賀国に移封され、事実上の減封となる。また定次の時代には、順慶の時代に重鎮として活躍した島左近が出奔するなど、家中は筒井騒動で乱れた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで定次は東軍に属して戦後に所領安堵を受け、伊賀上野藩主として続いたが、慶長13年(1608年)に再度の筒井騒動により家中を乱したとして、江戸幕府により改易に処された[1]。それから7年後に大坂の陣が起きると、定次とその子・筒井順定は豊臣氏と内通したとして自害を命じられた。
なお、土佐国本川五党の1つに筒井氏があり、これは大和の筒井氏の子孫だという。ただ、その伝承が定次が市正と称して郎党7名とともに土佐国土佐郡本川郷南野山(現在の高知県土佐郡大川村南野山)に移り、そこに屋敷を構えたのが祖とあるため[1]、疑わしい。
現在では高知県に多い姓で、吾川郡吾北村(現在の同郡いの町)では最多の姓となっており、吾川郡と土佐郡に非常に多い姓である[1]。