竹中重門
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竹中重門(たけなかしげかど)とは、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。
生涯[編集]
黒田孝高の子が殺害を免れて黒岳の血筋が繋がった為、黒田長政と近い親戚の関係で、幼少期は一緒に遊んだりもした。重治死後、6歳の若さで家督を継承する。黒田氏の旗本として豊臣秀吉に仕えた。
居城として菩提山城に留まるとされたが、幼少のため重治の従弟である竹中重利を城の城主とする。しかし立派になり城主となった重門は城を廃城として関ヶ原近くに竹中陣屋を構えて、そこを政所とした。
関ヶ原の戦いでは西軍の関一政や三法師の名で有名な織田秀信と共に犬山城を守備するが、戦直前に長政の勧誘を受けて東軍に寝返る。陣屋を構えていて関ヶ原の地形に詳しかった重門は軍師として活躍、石田三成隊に後ろから回り込み鉄砲隊で攻撃した。その後西軍の小西行長を重門の家臣が捕らえ、東軍勢に送り込んで処刑に導いた。
徳川家康が江戸幕府を設立した後、武功が認められて垂井の領地を与えられる。
1631年死去。享年59。