大友親治
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大友 親治(おおとも ちかはる、寛正2年(1461年[1]) - 大永4年(1524年[1]))は、豊後の守護大名・戦国大名。大友家の第18代当主[1]。大友宗麟の曽祖父に当たる。父は第15代当主の大友親繁で5男[1]。
生涯[編集]
5男であったため家督相続の可能性は当初は無く、僧侶として肥後瑞光寺に入寺した[1]。しかし還俗して[1]甥の義右を助ける補佐役となり、延徳元年(1489年)に大友親胤の反乱を鎮圧している[2]。明応5年(1496年)に甥の義右、そして長兄の政親が相次いで亡くなると、直ちに大友家に対する反乱勢力を鎮圧して自ら大友家第18代当主となる[1]。明応6年(1497年)には勝光寺光讃を管領の細川政元の下に派遣して第11代将軍・足利義澄とも通じた[1]。明応7年(1498年)には義澄に対して自分の嫡子・義長への家督譲渡を上申し、これに対して周防の大内義興が大聖院宗心(大友親綱の子で親治の従兄弟)を擁立して干渉すると、親治は明応8年(1499年)に豊前下毛郡で大内軍を破って宗心を追放し、大友家の家督を安定化させ、同時に豊前南部の支配権も確立し、大友家の戦国大名化も成し遂げた[1]。
文亀元年(1501年)に家督を嫡子の義長に譲るが、なおも隠居として政治権力を保持しており、大内義興が足利義稙を擁して上洛した際には入洛の祝いを贈って外交的に接近している[3]。また義長が早世したため、孫の義鑑を後見した。大永4年(1524年)に死去。享年64。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9