大友政親
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大友 政親(おおとも まさちか、文安元年(1444年[1]) - 明応5年(1496年)6月[1])は、豊後・筑後の守護大名[1]。大友家の第16代当主[1]。父は第15代当主の大友親繁[1]。正室は大内政弘の妹。通称は五郎[1]。
生涯[編集]
第15代当主・大友親繁の子で、文明5年(1473年)に父から家督を譲られて当主となる[1]。文明9年(1477年)に室町幕府より豊後・筑後守護に任命された[1]。しかし当時は応仁の乱による守護権力の動揺期であり、大友家もその動揺から家臣による反乱が相次いだ[2]。異母弟・大友親胤による反乱、家臣・田原親宗による反乱、さらに隣国の周防大内氏の内政干渉など[2]、大友家は度重なる窮地に立たされる。
文明16年(1484年)に家督を嫡子の義右に譲ったが、この義右の母親が大内氏の娘であった事からさらなる大内家の干渉を招き、父子対立も発生する[2]。明応5年(1496年)5月に義右が急死しているが、これは政親による毒殺の風評があり、それに対して義右の母の甥に当たる大内義興が大軍を率いて豊後に侵攻したため、政親は船で筑前に逃れようとしたが、赤間関で大内軍に捕らえられて殺害された[2]。享年53。
死後、家督は弟の親治が大内義興の干渉を押しのけて継承した[1]。墓所は臼杵の海蔵寺[2]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9