北条英時

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北条 英時(ほうじょう ひでとき、? - 正慶2年/元弘3年5月25日1333年7月7日))は、鎌倉時代末期の北条氏の一族。鎌倉幕府最後の鎮西探題(在任:元亨元年12月25日1322年1月13日) - 正慶2年/元弘3年5月25日(1333年7月7日))。父は赤橋流北条久時。幕府最後の執権北条守時の弟。赤橋英時とも称される。官位は従五位修理亮。守時以外の兄弟姉妹に宗時種時時宝登子足利尊氏正室)、女子(洞院公守室)、種子正親町公蔭室)、女子(北条貞規(師時の子)室)。養子規矩高政

生涯[編集]

通称は武蔵修理亮[1]。元亨元年(1321年)12月25日に北条随時の後任として鎮西探題に任命されて博多に赴任する[1]。正慶2年/元弘3年(1333年)3月13日後醍醐天皇らによる討幕運動が九州にまで飛び火し、天皇の綸旨を受けた菊池武時が探題館に襲撃する事件が起きるが、この時は少弐貞経大友貞宗の離反もあって菊池武時を敗死に追い込み、さらに養子の肥前守護である高政に命じて菊池氏残党を討伐させ、3月26日には松浦党に大隅・野辺・渋谷などの反幕勢力を攻めさせるなど北条氏優位に勢力を保った[1]

だがそのため、博多の防備が手薄になったので安芸三池氏などに動員令を出して博多の防衛に当たらざるを得なくなる[1]。そして5月に至って英時の義弟である足利高氏によって六波羅探題が陥落した情報が九州に知れ渡ると、これまで味方だったはずの少弐貞経や大友貞宗らが島津貞久も引き入れて反乱を起こし、英時は博多において一族郎党240名余りと共に自殺した[1]北条高時ら主だった北条一族が鎌倉で自殺してからわずか3日後のことであった。

英時が鎮西探題として発給した裁許状は約100通が現在まで伝わっており[1]、貴重な史料となっている。また和歌に優れた文化人で鎌倉時代末期を代表する歌人だったとされ、九州二条派の和歌界の中心人物として『臨永和歌集』『松花和歌集』『続現葉和歌集』などにその作が収められている[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P552

参考文献[編集]