宗氏

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宗氏(そうし)とは、日本氏族である。対馬国を7世紀近く支配した領主として知られている。室町幕府には守護代、後に守護大名となり、江戸時代には外様大名として対馬国を支配した。また、その位置から朝鮮半島と常に関係を持ち、取次役を務めている。家紋は五七桐(桐に菊、丸に四目結)。居城は対馬府中城厳原城)。

概要[編集]

宗氏の祖先は平繁盛とされている(『寛政重修諸家譜』)。ただ、宗姓は惟宗氏の宗にちなむという説もあり、そうなると惟宗氏の一族の可能性もある。

室町時代には対馬守護となった少弐氏守護代として、事実上対馬を支配した。後に対馬の守護に昇格している。

織田信長豊臣秀吉のいわゆる織豊政権期に入ると、当時の宗氏の当主・宗義智は豊臣秀吉にいち早く通じ、九州征伐に乗じて従ったため、豊臣政権下の大名となり、義智は小西行長の娘と結婚する。しかし、朝鮮出兵を目論む秀吉の命令で李氏朝鮮に対する服属交渉を担当することになると、これに難儀して朝鮮出兵にも従わざるを得なくなった。

秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したものの、戦後は処分されることなく所領を安堵された。これは覇権を掌握した徳川家康が秀吉のために悪化した李氏朝鮮との関係改善を望んでおり、そのため宗氏は交渉役として利用できると考えて処罰しなかったものと見られている。このため、義智は家康の命令で李氏朝鮮との関係改善に努め、そのおかげもあって1万石の対馬府中藩主となっている。

後に李氏朝鮮との交渉の際の不正、後継者問題(柳川一件)などで一時期改易も検討されたことがあったが、やはり宗氏の李氏朝鮮との外交関係が江戸幕府より重視されていたことから罪には問われず、それどころか異例にも家格は国主とされ、江戸城内の詰間は大広間、10万石の格式まで許されている。ちなみに宗氏は江戸幕府から加増や分家への分知などもあって文化14年(1817年)の時点で諸説あるが3万3000石になっている。
なお、宗氏の歴代当主の外交交渉により、徳川氏征夷大将軍が代替わりするごとに李氏朝鮮から外交使節、いわゆる朝鮮通信使(あるいは朝鮮来聘使)が江戸まで来訪することも慣例化した。なお、宗氏の藩財政は李氏朝鮮との交易もあって豊かであり、肥前国の田代(現・鳥栖市)にも領地を持っていた。

しかし幕末になる頃にはお約束の藩財政の悪化、それに加えてロシア艦隊による対馬占拠事件などに苦慮している。明治維新では明治政府に属してその功績から豊後国などに3万石余りの所領の管理を任されたものの、朝鮮との交渉は明治政府の外務卿が担うことになり、独占は失われた。

明治2年(1869年)に藩名を対馬厳原藩(つしまいずはらはん)と改名。1871年の廃藩置県とともに最後の藩主だった宗義達は知藩事を免職。明治17年(1884年)の華族令で宗氏は伯爵に封じられた。

関連項目[編集]

  • 草梁倭館 - 対馬藩が事実上管理した、釜山にあった江戸幕府の出先機関。

外部リンク[編集]