西園寺公宗

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西園寺 公宗(さいおんじ きんむね、延慶3年(1310年) - 建武2年8月2日1335年8月20日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代前期にかけての公家。父は右大臣西園寺実衡[1]。母は昭訓門院春日局二条為世の娘)[1]。叔母に後伏見天皇女御であり光厳天皇光明天皇の生母である広義門院寗子がいる[1]。兄弟に公重公俊経喬。妻は日野名子日野資名の娘)。子は実俊[1]

生涯[編集]

公宗の西園寺家は上級公家のため、左中将・参議となり、正中2年(1325年12月権中納言となり、後に光明天皇となる量仁親王の春宮権大夫・大夫を長く兼ねた[1]元徳2年(1330年2月に権大納言となり、3月に正二位に叙される[1]正慶2年/元弘3年(1333年6月鎌倉幕府滅亡の翌月に官位を辞したが、8月に元の官位に戻る[1]。建武2年(1335年)4月に兵部卿となる[1]

この年の6月、公宗は後伏見院を奉じて北条泰家北条時行北条氏の残党と共に反後醍醐天皇の謀議を行なうが、弟の公重が密告した事により謀議が発覚し、舅の日野資名、日野氏光三善文衡と共に逮捕された[1]。この計画の失敗により信濃で挙兵の準備を進めていた時行は7月に挙兵して中先代の乱を起こしている[1]

太平記』によると公宗は逮捕されると名和長年結城親光らによって拷問を加えられて全てを白状し、出雲への流罪が決められた。しかし流罪の途上で送られた使者の言葉が取り違えられて公宗は名和長年により処刑された。享年26[1]

これにより西園寺家は弟の公重が継承した[1]。公宗の遺児・実俊は公宗処刑から100日ほどして生まれ、辛くも追及の手を逃れて後に西園寺家を継承した[1]

公宗は琵琶や和歌など風雅の道に秀でた文化人であったと伝わる[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、P232

参考文献[編集]