賤ヶ岳の七本槍

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賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)とは、天正11年(1583年4月羽柴秀吉柴田勝家織田信長の後継者争いによって起きた賤ヶ岳の戦いで活躍した秀吉側の7人の武将のことである。なお、当時はこの名前はなく、後代の江戸時代における信頼性の低い『甫庵太閤記』に初めて登場する。

メンバー[編集]

概要[編集]

本当は上記の7名のほかに、桜井佐吉(? - 1596年)と石河兵助(? - 1583年)の名もあったという。しかし、桜井は賤ヶ岳の後は余りパッとせずに秀吉の死の2年前に病死。石河は賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家麾下の猛将・拝郷家嘉に討ち取られたため、9本いた槍は7本になり、7本槍と称されるようになった。

加藤清正、福島は羽柴家の遠戚、平野も尾張時代からの秀吉家来で、加藤嘉明、脇坂、片桐は近江平定後、糟屋は播磨平定後に秀吉子飼いとなった。なお、七本槍は豊臣政権下では重用されたが、江戸幕府の時代になると外様大名として警戒され、特に秀吉と縁戚関係にあった加藤清正は跡継ぎであった息子の忠広の時代に改易され、加藤嘉明も息子の明成が家臣との諍いから大幅減封された。福島正則も晩年に広島城の修築問題などを理由に、秀忠によって所領を大幅に削減(事実上の改易)されている。脇坂氏のみ、龍野藩の大名として幕末まで存続した。また平野氏も、旗本として存続し、明治になってから大名に昇格している。

主に武勇を鳴らして戦場で大きな武功を立てたことから、豊臣政権下における「武断派」と言われて秀吉の晩年から石田三成小西行長らの官僚派(いわゆる「文治派」)と争い、秀吉没後の政権分裂における大きな原因の1つになった。ただ、武断派といわれる彼らだが、意外にも支配下に置いた領土における治績は多く伝わっており、特に加藤清正などは今でも熊本において大いに顕彰されている。