茨木藩

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茨木藩(いばらぎはん)とは、江戸時代前期に摂津国に短期間存在したである。藩主家は外様大名片桐氏藩庁茨木城

概要[編集]

天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦い賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる活躍をした片桐且元は、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉から摂津国茨木城主に任命されて居城とした。慶長3年(1598年)8月の秀吉の死後、豊臣家臣団が分裂する中で且元は大坂城において豊臣秀頼の重臣としてその存続に尽力した。関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)、且元は徳川家康から大和国平群郡に1万8000石余を加増され、同郡の竜田城を居城にした。ただし茨木城もこの時点でまだ且元の支配下にあり、且元は茨木藩と竜田藩の双方の藩主となりながら、大坂城に詰めて豊臣氏の家政も仕切っている。

慶長19年(1614年)、家康と秀頼の間が緊張すると、且元はその関係改善に努めるが大野治長ら豊臣氏の重臣が且元が家康と内通したと猜疑して且元の暗殺を計画する。やむなく且元は弟の片桐貞隆と共に大坂城を退去し、家康方に寝返った。

慶長20年(1615年)、大坂の役で豊臣氏が滅亡した半月ほどした後、且元は急死した。そして同年、一国一城令により茨木城は廃城となり、茨木藩も廃藩となった。

歴代藩主[編集]

片桐家

2万8000石 外様

  1. 且元(かつもと)